市民の生活を変革するEUの新しい科学技術

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最先端の科学技術研究に対して、積極的な支援を続けているEU。将来的にどの技術がどのように市民の生活を変え得るのか、考えられる負の影響はどのようなものか、また研究を進めるための適切な政策は何か――。これらの観点から、特定の技術に関して分析した報告書を随時発表しているのが、欧州議会にある科学技術選択評価委員会(STOA)だ。本稿では「電気自動車」「精密農業」「ゲノム編集」の3つの技術を例に、STOAによる分析を紹介する。

画期的な科学技術を効率よくEU政策につなげる

古くは弓矢が狩猟の効率を飛躍的に高め、現代ではインターネットにより通信手段が発達して、地球が狭く感じられるようになったように、いつの時代においても人々のライフスタイルを劇的に変えるのは、革新的な技術や画期的な発明にほかならない。しかし、産業構造そのものを変える革新技術には、社会的な繁栄をもたらすポジティブな側面だけでなく、適切にコントロールすべき負の側面も存在する。そのため「最先端の科学技術をいかにして人間は活用すべきか」という問題を、社会全体が常に意識しなければならない。

欧州連合(EU)の意思決定機関である欧州議会には、科学的・技術的な側面を持つ多くの事案が送られてくる。それらの事案に関し、独立した科学的な知見と分析を提供するのが、欧州議会科学技術選択評価委員会(Science and Technology Options Assessment=STOA)だ。STOAは欧州議会からの求めに応じて、政策アジェンダに含める価値があり、かつ社会的なインパクトをもたらし得る革新技術を見分けるための先行調査を行い、長期的な科学政策の形成をサポートする。5億人を超える欧州市民の生活のみならず、気候変動問題や持続可能な開発といったグローバルな課題にも影響力のある、EUの科学政策を支える重要な存在でもある。

ちなみに、毎年開催される「日EU科学政策フォーラム」にもSTOAから代表が参加し、科学技術イノベーションのあり方について積極的な意見交換を行っている。

先端科学技術分野の研究者たちを支援するEUの取り組みについて説明するビデオ
© European Union, 2019 – Source: European Parliament

EUが重点化を目指す10分野の科学技術

STOAは2015年に『われわれの生活を変え得る10の技術――潜在的影響と政策的意味合い(Ten technologies which could change our lives: Potential impacts and policy implications)』と題した報告書を発表し、自律走行車や3Dプリンター、ビットコイン、ドローン、ウェアラブル技術などについて、現状、正負双方の影響、進めるべき政策の方向性を分析している。

この続編とも言える2017年版の『われわれの生活を変え得るさらなる10の技術(Ten more technologies which could change our lives)』では、(1)電気自動車、(2)高度都市交通システム、(3)磁気浮上式(マグレブ)輸送、(4)木材、(5)精密農業、(6)量子技術、(7)無線IDタグ(8)ビッグデータと医療、(9)オルガノイド、(10)ゲノム編集、の10分野を取り上げている。本稿では、日本でも関心が高い「電気自動車」「精密農業」「ゲノム編集」について、STOAがどのように分析しているかを紹介する。

電気自動車

<現状>

発明されてから100年以上がたつ自動車は、現代の日常生活でもはや欠かすことのできない移動手段となっている。自動車の大量生産が可能になり、その発動には主に内燃機関(ICEs、内燃エンジン)が用いられ、石油やディーゼルといった化石燃料が必要とされてきた。しかし近年では、これらの化石燃料が燃焼して生じる二酸化炭素が地球温暖化の原因となり、窒素酸化物や微粒子が大気汚染を引き起こしていることが明らかになっている。このことが、化石燃料の燃焼を必要としない電気を動力源とする自動車開発の背景にある。

電気自動車の普及には自動車の買い替え促進だけでなく、充電ステーションも含めた送電網の整備も欠かせない
© European Union, 1995-2019

<社会への影響>

電気自動車には、大気汚染や二酸化炭素の削減効果以外にも多くの利点がある。メンテナンスにかかるコストが低く、駆動音が小さいほか、運転も簡単だ。また輸入エネルギー資源に頼らなくて済むため、貿易バランスの是正を促して、天然資源に絡む国際問題の解決にもつながることが期待される。ただしエンジン自動車に比べて、電気自動車は生産コストが高く、航続距離も及ばないのが現状。そのためEU加盟国では、電気自動車の市場を広げる政策に取り組むとともに、バッテリー技術の開発をさらに進めている。

<政策の方向性>

エンジン自動車から電気自動車への切り換えを促すためには、電気自動車の所有者に対する優遇制度やサポートプログラムの設定といった社会全体への働きかけが不可欠というのが共通認識だ。現状では、電気自動車に乗り換えた所有者への優遇制度を設けるとともに、充電インフラを拡充し、電気自動車を従来のエンジン自動車と同じように利用できる環境づくりを進める。移動システムと電気供給システムそれぞれの研究開発を同時並行して進めていくことが、電気自動車を含めたeモビリティの効果的な普及につながる。なお、従来のエンジン車と同様のパワーを求める消費者の要望に沿って、重量のある電気自動車の生産に補助金を出すよりも、将来を見越してカーシェアリング向けの軽量電気自動車の開発を促進する方が理にかなうだろう。

精密農業

<現状>

精密農業(Precision Agriculture)とは、ICT(情報通信技術)やIoT(モノのインターネット)によるデータに基づいた生産管理や、作業のオートメーション化によって農作業の効率化を目指すものだ。農業に必要な土地やエネルギー、水、肥料、殺虫剤など(インプット)に対し、そこから生産される食料(アウトプット)の割合を高め、農業を効率的かつ持続可能にする。Eurostatのデータによると、EUが排出する地球温暖化ガスの約10%は農業から生じていると試算されており、農業の効率化は気候変動問題の解決にもつながる。また肥料や殺虫剤の過剰使用による土壌汚染も深刻な課題の一つとなっている。「高度なジオマッピング※1 技術を用いた自動操縦システム」「土壌や作物の状況に関する情報収集を行うリモートセンシング」「土壌圧縮を最小化するための、昆虫ロボットも視野に入れた農業専用ロボット開発」の3方向からのアプローチが主要だ。

精密農業の実現に向け、分析データに基づいてエリアごとに最適なインプットを行う技術の開発が進んでいる
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<社会への影響>

精密農業は、農作物の生産効率を高めたり、肥料や殺虫剤の使用量を抑えたりするだけでなく、食の安全性を高めるほか、社会にも大きな変化をもたらすと期待されている。例えば、農業に必要な人手や製品が減ることで、それらを求めて都市部に移動しなくてもよくなる。また新技術やマネジメント力など、精密農業には従来の農業とは異なる新たなスキルが必要とされるため、若手農家には専門的かつ複合的な知識が必須となるだろう。そのため農業が若者にとってより魅力的な職業になるとともに、地方部の教育レベル向上にもつながるであろう。

<政策の方向性>

EUにおける農業の特徴や実態は28加盟国ごとに異なるが、その中でも農業従事者がより多い国では、精密農業が与える社会的なインパクトはそれだけ大きくなる。そのため政策決定では、各国で異なる状況を考慮した上で、加盟国ごとの政策措置を取る必要がある。また精密農業の実現には、バイオセンサーやロボットなどの研究開発を強化することも欠かせない。これまでの共通農業政策(CAP)から農業分野における研究開発の促進へと、予算配分の方向転換も想定される。

ゲノム編集

<現状>

ある生物の遺伝情報をまとめた総体をゲノムと呼び、その中にはその生物を構成するあらゆる遺伝子が含まれている。近年、ゲノムを自由に編集する技術、つまり遺伝子を目的に応じて改変する手法が飛躍的に進歩しており、その中でも大変革をもたらすだろうと特に注目されているのが「CRISPR-Cas9システム」だ。同システムは、DNA2本鎖を切断して遺伝子構造を改変するもので、CRISPR-Cas9というタンパク質が中心的な役割を果たす。CRISPR-Cas9システムを使えば、さまざまな組織の中の特定の部位をターゲットにして、遺伝子の働きをストップさせたり、遺伝子を置き換えたりできる。他の類似のシステムと比べて信頼性が高く、効率的かつ低コストであるため、多くの分子生物学者が研究に利用し、より安全で効率的なゲノム編集技術へと改良が進められている。

自由自在なゲノム編集技術を応用することで、画期的な治療方法の開発につながると期待されると同時に、懸念事項も指摘されている
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<社会への影響>

CRISPR-Cas9システムは、がんやHIVなどのさまざまなヒトの病気の治療に活用できる画期的なツールと目されている。例えば、がんの原因となっている遺伝子を破壊したり、別の遺伝子に置き換えたりすることによる治療の開発が可能となるほか、ヒトが病気にかからないように遺伝子を調節することへの利用も期待されている。蚊の発生を抑えてマラリアの発病を減らしたり、農作物に感染する病原菌を根絶やしにしたりすることにも使われるだろう。CRISPR-Cas9は従来のタンパク質に比べて効率的かつ信頼度が高いため、これらの主要な研究対象として開発が進んでいる。

ただし、いまだ自由自在なコントロールが達成されているわけではなく、CRISPR-Cas9システムの利用は倫理的な懸念事項も抱えている。例えば、ヒトの受精卵でゲノム編集を行うと、ヒトが生まれる前に寿命や身体的な特徴などを改良する、デザイナーベイビーの誕生も可能となってしまうことが挙げられる。そのためヒトのゲノムに対しては、次世代に遺伝する改変を自粛しているのが現状だ。EUの研究助成プログラム「ホライズン2020」においても、次世代に遺伝する可能性があるヒトのゲノム編集に関する研究は、助成対象から外す措置が取られている。

<政策の方向性>

ゲノム編集技術の研究開発は近年急速に進んでおり、法規制が追いつけていないのが実情だ。一つには、CRISPR-Cas9システムをゲノム編集技術として規制すべきか、あるいは同システムを用いて作り出された産物に対して規制をかけるべきか、という議論がなされている。また、従来の遺伝子工学に基づく定義をそのままゲノム編集技術に当てはめるべきかどうかという点でも、国際的に議論が進んでいる。欧州委員会では、新たな植物栽培技術で生産された産物として規定する法的解釈を行うことにより、法的な不確実性を最小化しようとしている。このような解釈が、ゲノム編集技術はEUの遺伝子組み換え作物の封じ込めと意図的放出に関する法的枠組みに入るという決定への道を開くと期待されている。

 

※1 位置情報や地理情報を可視化すること