2017/03/14

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PART 1

ローマ条約とEUの歴史

近年、金融・財政・経済、難民、テロ、英国の離脱などの危機に揺れる欧州連合(EU)。厳しい情勢の中、3月25日にはEUの礎を築いた「ローマ条約」の調印60周年を迎える。PART 1では、ローマ条約の調印に至る背景、その意義を中心に考察する。執筆は、PART 2と共に、田中俊郎慶應義塾大学名誉教授。

経済と原子力分野で統合を図ったローマ条約

EUはローマ条約調印60周年を、全加盟国のみならず域外国でも祝している。上記は記念ロゴマーク

60年前の1957年3月25日にローマで調印された条約は2つあり、「欧州経済共同体(EEC)設立条約」と「欧州原子力共同体(EAEC、通称:ユーラトム)設立条約」である。1951年4月18日に調印され、欧州統合の出発点となった「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)設立条約」を、通称「パリ条約」と呼ぶのと同様に、「ローマ条約」と呼ばれている。しかし、ユーラトムは、原子力の軍事利用と平和利用の峻別が難しく進展が乏しかったのに比べ、EECは予想以上に目覚ましい発展を遂げたため、一般に「ローマ条約」と呼ぶ場合はEEC条約を指すことが多い。

「欧州統合の父」と称されるジャン・モネ  © European Union

ECSCの狙いは、「石炭と鉄鋼という資源を共同の機関の下に管理する」ことによって、「フランスとドイツの永年にわたる対立を解消すること」であった。考案者であり、後に「欧州統合の父」と称されたフランス人実業家・政治家ジャン・モネ(写真左)は、「戦後1940年代後半に成立した『欧州経済協力機構(OEEC)』や『欧州評議会(Council of Europe)』は単なる政府間協力の域を出ず、真の統合は、たとえ限られた分野であっても、国家主権に対して大胆な取り組み方をしなければ達成できず」、同時に「欧州は一つのプランによって成るものでもなく、具体的な業績の積み重ねによって建設される」と考えていた。

フランスの呼びかけに、西ドイツ、イタリアとベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)が加わり、6カ国によるECSCが1952年8月に動き始めた。欧州では同時並行的に、朝鮮戦争勃発に対応するため、米国から求められた西ドイツの再軍備を可能にする手段として「欧州防衛共同体(EDC)」の設立が進められていた。しかし、1952年5月27日に調印されていたEDC設立条約の批准を、提案国フランスの国民議会が1954年8月30日に否決。また、同時期に検討されていた、ECSCとEDCを包含し、関税同盟や共通外交政策を目指していた「欧州政治共同体(EPC)設立条約案」も頓挫した。

結果として、「欧州統合の旗印を唯一揚げていたECSCは、国家の首都に政治的権限を引き戻そうとする荒波にさらされていた孤島のような存在であった」(Roger Morgan)※1

EUの主な歴史

1951年 欧州6カ国が欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)条約に調印
1957年 ECSC6カ国がローマ条約に調印、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(ユーラトム)を創設へ
1973年 欧州共同体(EC)が9カ国に拡大、さらに多くの共通政策を打ち出す
1979年 初の欧州議会直接選挙
1981年 ギリシャが地中海諸国として初加盟
1992年 欧州単一市場完成
1993年 マーストリヒト条約により欧州連合(EU)創設
2002年 ユーロ紙幣・硬貨の流通開始
2004年 EU、25カ国に拡大(2007年には27カ国へ)
2009年 リスボン条約発効、EUの仕組みが変わる
2013年 クロアチアの加盟で28カ国に
2016年 英国、国民投票でEUからの離脱を決定
2017年 ローマ条約調印60周年

EEC条約とユーラトム条約の起草に大きな役割を果たしたベルギ―のスパーク外相 Photo: European Parliament / Source: Paul-Henri Spaak

このような状況を打破し、欧州統合の「再出発」を図るため、ECSC6カ国の外相が1955年6月1日~3日、シチリアのメッシーナに参集した。そこでは主に2つの将来構想が議論された。1つは、原子力エネルギー分野を次の部門統合とする案。この案は、ECSCの高等機関※2(後の欧州委員会)の委員長の再選を辞し、野に下って欧州統合を推進しようとしていたジャン・モネが提案し、フランスも支持していた。もう1つは、1948年に「関税同盟」を発足させ、1960年には「経済同盟」に発展させようとしていたベネルクス3国による共同提案で、部門統合ではなく、オランダが提案する「共同市場」を中核とする包括的経済統合案であった。

会合は、特にフランスが共同市場に否定的で紛糾したが、最終的には案を検討し、専門家の報告を受けるという妥協が成立。「メッシーナ決議」として採択され、ベルギーのポール=アンリ・スパーク外相を委員長とする「スパーク委員会」が設置された。スパークの巧みな議長裁きもあり、翌1956年5月29日~30日のヴェネツィアでのECSC6カ国外相会議の審議を経て、「スパーク報告」が採択された。それを受けてスパーク委員会は「条約起草委員会」に改組され、そこからEEC条約とユーラトム条約が起草されたのである。

EEC条約の内容と現実

EEC条約は、共同体を構築する基礎に共同市場(a common market)を設置し、物の自由移動を達成するための関税同盟(加盟国間で関税・数量制限を除去し共通域外関税を設定)を形成するとともに、人、サービス、資本の自由移動を保障した。また、通商政策、農業政策と運輸政策を共通政策として掲げ、競争政策、経済政策の調整と国際収支の不均衡是正、共同市場運営のための国内法の調和を図り、欧州社会基金と欧州投資銀行の設立を定めた。原理的には、すでにこの時点で、後の「域内市場」、現在の「単一市場」のように、国境による障壁を除去して、大きな欧州市場での競争を奨励する、新自由主義的な経済思想が根底にあった。しかも、この構想を実現することで、米ソ2大超大国の狭間で弱体していた欧州の復権を目指したのである。

EEC条約では、関税同盟について、第9条から第37条までを使って詳細な工程(1957年1月1日を基準として12年の過渡期を3段階として、各段階でも年度目標を設定)が作成されていた。しかし、条約検討・作成の時間の関係で、関税同盟以外の政策領域は、共通農業政策を含めて、大枠だけを定めた枠組み規定であった。そのため加盟国は、条約発効後、中身を埋める際、自国の利益が擁護できるように、加盟国の代表からなる理事会(閣僚)に最終決定権限を残し、その決定も全会一致を求めた。その意味では、ECSCの特徴であった超国家性は、EECでは抑えられ、政府間的な特徴が強化されていた。

それでも、憲法的な決定や機微な分野は例外として、政策の実施に関わる決定については、理事会での決定方式を、全会一致から特定多数決へと段階的に移行することによって、加盟国の拒否権を封じる仕組みも考案されていた。しかし、シャルル・ドゴール仏大統領が特定多数決制への異議を唱え同国は理事会を欠席(「空席政策」)。それを解決するため、1966年1月、加盟国の死活的な利害に関わる決定については、条約の規定にかかわらず、全会一致を基本とすることとなった(「ルクセンブルクの妥協」)。その束縛から解放されたのは、「単一欧州議定書」の発効(1987年7月1日)以降であった。

ローマ条約の批准、そして3共同体からなる欧州共同体へ

ハルシュタイン初代EEC委員長  © European Union, 1995-2017

人の自由移動は、今回の英国のEU離脱決定の要因の一つになったが、EEC原条約に定められた「人(persons)」は、「労働者(workers)」であり、当時国外に出稼ぎ労働者を派遣していたイタリアの要請で挿入されたものである。家族呼び寄せや、より一般的に人の自由移動が認められるのは、「単一欧州議定書」と「EU条約(マーストリヒト条約、1993年11月1日発効)」からであった。

ともあれ2つのローマ条約は1957年内に6カ国で批准され、1958年1月1日にEECとユーラトムが発足した。EECの初代委員長には西ドイツのヴァルター・ハルシュタインが起用され、ユーラトムの初代委員長はフランスのルイ・アルマンが就任した。ECSCの主要機関(高等機関、特別閣僚理事会、司法裁判所)は、共同総会(後の欧州議会)がストラスブールに置かれた以外は、ルクセンブルクに設置されていた。それに対し、EECの委員会は、ブリュッセルに設置され、理事会もブリュッセルに移されたが、ルクセンブルクへの代償として4月、6月、10月の理事会はルクセンブルクで開催されることになった。

コラム ローマ条約調印秘話

2007年に、関係者によって語られた秘話によれば、ローマ条約本文のオリジナルは印刷が間に合わず、1957年3月25日に6カ国の大統領や首相など12名の代表が署名したのは白紙の文書であった。

コンセルヴァトーリ宮殿(カピトリーノ美術館)で、ローマ条約の調印に臨む6カ国の大統領、首相や外相たち(1957年3月25日、ローマ) © AP, 1957 / Source: EC - Audiovisual Service / Photo: Ivan Crosceneo

条約交渉が行われていたブリュッセルから、調印式が行われるローマへタイプライター、用紙、謄写版印刷機などを移送していた鉄道の貨車が、客車から切り離され、スイス国境とイタリア国境でそれぞれ一時的に行方不明になった。それでも、なんとか探して調印式前夜までに印刷を終えていたが、インクを乾かすために用紙を床一面に並べておいたところ、翌朝ゴミと勘違いした掃除人が捨ててしまった。そのため、苦肉の策として、6カ国の国家元首の肩書きだけが印刷された最初の頁と最後の署名欄の頁の間の本文は、白紙の束とした。箝口令が敷かれ、報道陣の目を避けるため、署名された文書は直ちに別室に移され、施錠されたとのことである。
(出典:EurActiv)

1967年7月1日に「機関合併条約(1965年4月8日調印)」が発効し、EEC、ECSC、ユーラトムの3共同体からなる「欧州共同体(EC:European Communities)」が誕生し、発議・執行機関もEC委員会に、決定機関もEC理事会に統一された。さらに1968年7月1日には、EEC条約が定めた予定より1年半前に関税同盟が完成し、同時に、農業共同市場も始動した。関税同盟は、域内関税の撤廃と第三国に対する共通域外関税を設定した。しかし、物、人、資本、サービスの自由移動を妨げてきた非関税障壁の撤廃は遅々として進まず、それが本格的に動き出すのは、1985年に登場したジャック・ドロール委員会の下で「域内市場白書」が作成され、「単一欧州議定書」が、域内市場の定義と完成期限(1992年末)を設定した以後のことである。

仏大統領のたび重なる拒否で難航を極めた英国の加盟

1958年1月16日に開かれたEEC委員会の初会合。ハルシュタイン初代委員長を含む、仏独伊から各2名、ベネルクス3国から1名ずつ、計9名の委員たちは、ローマ条約の規定を厳粛に執り行う重責を担うこととなった(ブリュッセル) © European Communities, 1958

EEC条約は、その扉を全ての欧州諸国に開放している。条約の起草者は、他の西欧諸国の加盟、とくに英国の加盟の可能性を念頭においていた。英国のハロルド・マクミラン首相はEEC条約調印直前の1957年2月にEECをも包括する自由貿易地域(FTA)案を欧州経済協力機構(OEEC)に提出した。その交渉を阻止したのは、1958年5月に政権に復帰したドゴールであった。

1958年11月、フランスはOEECを舞台にしたFTA交渉の打ち切りを宣言し、英国は、やむなく非EECのOEEC7カ国による「欧州自由貿易連合(EFTA)」を結成した。1年半後、マクミラン英首相は、舵を大きく切り1961年8月にEECへの加盟を申請し、10月から交渉が開始されたが、1963年1月14日ドゴール大統領は、「英国は米国のトロイの木馬である」と英国のEEC加盟を拒否した。直後の1月22日には独仏の特別な関係を築く「エリゼ条約」をコンラート・アデナウアー西独首相と調印し、フランスのパートナーは、英国でなく、西ドイツであることを誇示した。1967年5月ハロルド・ウィルソン英労働党政府が、再びEECに加盟申請をしたが、交渉テーブルにつく前にドゴールによって再び拒否された。

結果として、英国がアイルランド、デンマークと共にECの加盟を果たしたのは、ドゴールが引退した後の1973年1月であった。それまでに、フランスと西ドイツを中心に、ECの枠組みは決定されており、自ら創設に関わらなかったEC、現在のEUは、英国にとって決して居心地の良いものではなかったのでないか。

1973年の第一次拡大後、EC/EUは、南へ、北へ、東へと五次の拡大を行い、現在の加盟国は28カ国になった。国土面積、海の存在、人口、経済力、人種、言語、宗教、軍事同盟参加か中立か、多種多様な国家の集まりである。そのような「多様性の中の統一」※3を求めるEUであるが多くの難しい挑戦を受け、その寛容性やその存在意義さえも疑われる時代を迎えつつある。そのような中で、EUはローマ条約調印60周年を迎えようとしている。

PART 2では、ローマ条約調印60周年以降のEUを展望する。

※1^ Roger Morgan, “West European Politics Since 1945: The Shaping of the European Community”, Capricon Books, 1973, p.142から引用。
※2^ High Authority。最高機関とも称される。
※3^ 「United in Diversity」。EUのモットーで「多様性の中の統合」とも訳される。

2017/03/14

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