駐日EU代表部開設40周年

PART 1

代表部が見た日・EU関係、40年の歩み

駐日欧州連合(EU)代表部は、今から40年前の1974年7月に、駐日EC委員会代表部という名称で東京都千代田区に置かれた。当時9カ国で構成されていた欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(Euratom)からなる「欧州共同体(EC)」の執行機関「EC委員会」を日本で代表する常設外交機関として開設されたのだ。その後、ECからEUへの変革、続くEUの大幅な機構制度改革に伴い、代表部の役割と活動範囲は変容し、名称も変化してきた。Part 1では、日・EU関係と代表部の40年の歩みを振り返るとともに、40周年にあたりEUと関わりの深い3名の方から寄せられたメッセージを紹介する。

「EC委員会代表部」開設の背景

「EC委員会代表部設置・特権免除協定」に署名するオルトリEC委員会委員長(左)と阿部駐EC日本大使(1974年3月、ブリュッセル) © European Union

駐日EC委員会代表部が日本に設置された1974年当時の欧州は、輸出がふるわずに経済的困難に直面していた。一方日本は、鉄鋼、船舶、自動車、家電製品などの輸出が好調に伸びていた。しかも日本の市場は参入が困難であったため、EC加盟国は恒常的な対日貿易赤字に陥り、通商摩擦が激化。そのような背景の下、1974年3月11日、EC委員会と日本政府が、「EC委員会の代表部設置・特権免除協定」に署名。同協定は同年5月31日に発効し、同年7月16日にEC委員会の駐日代表部が、「外交関係に関するウィーン条約」の適用を受ける外交使節の在日公館として東京に開設された。同年11月には初代代表としてウォルフガング・エルンストが着任した。

そのころ、1970年に加盟国の通商政策の権限がECに移譲されたのを受け、ECは日本の当局との間で通商問題解決のための模索を続けた。

1994年にEU対日輸出促進キャンペーンとして発足した「GATEWAY TO JAPAN」。現在も「EU Gateway Programme」として実施され、日・EUの経済交流の促進が図られている

そして、1978年3月には、「日・EC貿易不均衡問題に関する共同コミュケ」を発表。これは日・EC間の貿易紛争回避に向けた努力の結晶であり、欧州指導者からは“第一歩”と評価されたものの、予想した形での貿易不均衡是正には至らなかった。並行して1970年代~80年代にかけ、貿易不均衡是正のために、双方がさまざまな努力を行った。日本は自主的な輸出規制に合意するとともに、欧州製品の日本への輸入を促進した。ECも、1979年の経団連使節団によるブリュッセル訪問を機に、日本への輸出促進の一環として、「ECビジネスマン日本研修プログラム(現:EUビジネスマン日本研修プログラム、ETP)」を開始するなど、具体的に行動した。ETPは、欧州企業の幹部候補を日本に招き、日本語を学びながら日本のビジネスや商慣行などに関するトレーニングを提供する通商促進のための研修プログラムである。

貿易摩擦の激化は貿易関係に依存した日・EC関係の脆弱性によるもの、との反省から、関係の多チャンネル化が叫ばれるようにもなった。そうした中、政治的交流として1978年7月には、ルクセンブルクで日本の国会議員代表団と欧州議会議員代表団との間で初の日・EC間の議員対話が実現し、以降は「日・EC議員会議(現:日・EU議員会議)」として毎年開催されるようになった。また、同年10月には、日本の超党派国会議員の友好団体として「日・EC友好議員連盟(現:日・EU友好議員連盟)」が設立された。

1987年6月、日本とEUの友好関係の促進を目的とした日本で最初のEC協会(現:EU協会)が大分に設立。現在は、日本各地に14のEU協会がある

学界においては、1980年に「日本EC学会(現:日本EU学会)」が設立され、日本におけるEC研究の発展に大きな役割を果たした。さらに1987年5月には通商産業省とEC委員会が共同で日・EC間の産業協力を担う中核的機関となる「日・EC産業協力センター(現:日欧産業協力センター)」を東京に設立した。同センターでは、EC企業の幹部や理工系の学生を対象とした各研修事業、ビジネス情報提供などを実施。こうした多方面での取り組みのおかげで、80年代半ばには、ECの、ひいては代表部の日本における存在が徐々に高まってきた。

ミレニアムを機に日・EU関係は価値を共有する関係へと変容

1999年1月4日(月)の東京外国為替市場では、欧米に先駆けてユーロの初取引が行われた

1990年代は欧州にとって躍動の時代であった。1993年11月にマーストリヒト条約(欧州連合条約)の発効によって、ECが扱う政策、共通安全保障政策および司法協力という三本柱からなるEUが誕生し、EC委員会は欧州委員会と名称を変えた。1999年1月には単一通貨「ユーロ」が導入され、EUの政治的・経済的統合が明確な形となって実現し、EUは世界経済において大いに存在を高めた。そして、これと歩みをそろえるように、日・EU関係もダイナミックに変容する。

皇居にて天皇陛下へ信任状を捧呈するシュヴァイスグート現駐日EU大使。1990年以降、EU代表は大使としての扱いを受けるようになった(2011年2月、写真提供:宮内庁)

まずは1990年7月、駐日EC委員会代表部の第5代代表となったジャン・ピエール・レングが、着任に際し天皇陛下に信任状を捧呈。駐日EC委員会代表は日本政府より、外交上、大使としての扱いを受けることになった。

1991年、日本とECは新たな対話と協調の幕開けを迎える。同年7月、オランダのハーグにて、初めての日・EC首脳協議が、海部俊樹総理大臣とジャック・ドロールEC委員会委員長および議長国オランダのルード・ルベルス首相の間で持たれた。同協議において日本政府とECおよびその加盟国政府が、共同宣言(いわゆる「ハーグ宣言(※1)」)に調印する。同宣言は、日・ECが共有する価値を確認し、政治、経済、科学、文化など各分野の主要な国際的課題に対し、対話と協力を行うための制度的枠組みを強化することを謳うものだ。以来、両者の間では定期首脳協議をはじめ、部門別高級事務レベル協議など、さまざまな会合が継続的に行われている。

2000年には当時の河野洋平外務大臣が、パリで行った演説の中で、「多様性の下での共通の価値の実現」、紛争予防や核不拡散のような分野での「日欧政治協力の強化」、「グローバル化のメリットの共有」の3点を柱とした、日欧協力のための「日欧ミレニアム・パートナーシップ(Japan-Europe Millennium Partnership)」を提唱。「日欧は共通のビジョンを持ち、共同の努力が求められる」とし、2001年からの10年間を「日欧協力の10年」とすることを呼びかけた。それは、翌年に開催された日・EU首脳協議で、「日・EU協力のための10カ年行動計画」として結実し、両者はグローバルな課題に共に取り組む戦略的パートナーとしての道を歩み始めた。同行動計画は、「世界の平和と安全の促進」、「グローバル化の活力を生かした経済・貿易関係の強化」、「地球規模の問題と社会的課題への挑戦」、「人的・文化的交流」の4つを重点分野と位置づけ、具体的協力措置を打ち出し、日・EU間の政治的側面を強化するものとなった。

2005年には、重点目標のひとつである「人的・文化的交流」促進の一環として、日本とEU加盟25カ国(当時)で「日・EU市民交流年」という共同事業が行われ、1年間で延べ1,700のイベントが開催された。

EU全体の代表としてEUの優先課題に取り組む存在へ

直近の第22回日・EU定期首脳協議では、「戦略的パートナーシップ協定」と「自由貿易協定」の締結への強い姿勢が再確認され、科学技術や安全保障分野での具体的な行動や協力についても合意した(2014年5月7日、ブリュッセル) © European Union, 2014

2009年12月発効のリスボン条約(改正基本条約)が導入した大幅な機構制度改革により、ECはなくなり、その権限と責務はEUに引き継がれた。また、マーストリヒト条約で規定されていた三本柱構造は解消された。新たなポスト「EU外務・安全保障政策上級代表」(現職キャサリン・アシュトン)率いる外交機関「欧州対外行動庁(EEAS)」が誕生し、代表部はEEASの管轄下に置かれることとなった。代表部の権限も広がり、それまで扱っていた経済・通商問題や、気候変動およびエネルギー安全保障など一部の国際的課題に加え、外交・安全保障政策を含むEUのあらゆる課題を扱い、EU全体の利益と価値を代表するようになった。名称も、名実ともにEUを代表する「駐日EU代表部」と変更され、その代表も「EU大使」と称されることとなった。

「日・EU協力のための10カ年行動計画」が終了した後も、両者の関係のさらなる緊密化は推進されている。それが2013年4月より並行して交渉が始まった2つの協定――政治的、国際的、分野的課題の協力において法的拘束力を持たせる「戦略的パートナーシップ協定(SPA)」と、意欲的で包括的な「自由貿易協定(FTA)」――である。日・EU定期首脳協議において双方の首脳陣が合意した事項に基づき、交渉が早期に完了できるよう助力することが駐日EU代表部の当面の最優先課題のひとつである。

(※1)^ 正式名称は「日本国と欧州共同体およびその加盟国との関係に関する共同宣言」

駐日EU代表部40周年に寄せて

設立40周年にあたり、EUと関わりの深い3氏からいただいたメッセージを紹介する。

>>「日・EUは将来にわたり、共に協力するパートナー」 外務大臣 岸田文雄
>>「駐日EU代表部と私」 元衆議院議長・元副総理兼外務大臣 河野洋平
>>「記憶に深く残る1991年の通商交渉」 一般財団法人国際貿易投資研究所理事長/元通商産業審議官 畠山 襄

「日・EUは将来にわたり、共に協力するパートナー」

外務大臣 岸田文雄(きしだ・ふみお)

駐日EU 代表部設立40周年に心よりお祝いを申し上げるとともに、統合の深化と拡大の不断の努力を通じて、過去60年以上にわたりEU が行ってきた貢献、また、シュヴァイスグート大使をはじめとする関係者の皆様の日・EU 関係強化のための日ごろからのご尽力に深い敬意を表します。

日本とEU は、「民主主義」、「人権」、「法の支配」といった基本的価値を共有する非常に重要なパートナーです。国際情勢が不透明感を増す中、日本とEUは、世界の平和と繁栄のためにより積極的な役割を果たすことが求められています。本年5月にブリュッセルで行われた第22回日・EU 定期首脳協議において、日本とEU は基本的価値を共有するだけでなく、具体的な行動を通じた関係強化が重要であること、また、経済、安全保障およびグローバルな利益の増進といった分野における日・EU協力を一層促進させることに首脳間で一致しました。

現在交渉中の経済連携協定(EPA)は、日・EU 間のさらなる関係強化を図る観点のみならず、両者が世界経済の安定的成長やグローバルな貿易・投資のルール作りに貢献する観点からも重要です。また戦略的パートナーシップ協定(SPA)は、幅広い分野における日・EU協力を将来にわたり進める基盤となるものであり、基本的価値を共有する日・EU 関係に相応しい内容とすることが肝要です。両協定の早期締結に向けEU 側と引き続き精力的に交渉を進めてまいります。

「駐日EU代表部と私」

元衆議院議長・元副総理兼外務大臣 河野洋平(こうの・ようへい)

駐日EU代表部の設立40周年、おめでとうございます。

私と駐日EU代表部とのお付き合いは、第3代駐日代表として1982年に東京に赴任したローレンス・ヤン・ブリンクホルスト氏との交友に始まります。当時、私は新自由クラブ代表として政治活動を行っていました。ブリンクホルスト氏は、私の新自由クラブ結党より10年早い1966年に、母国オランダで保守新党の立ち上げに参画した政治家です。同年齢ということもあり、以来、同氏との友人関係は30年以上に及んでいます。

1986年には新自由クラブの解党、そして自由民主党への復党という形で私自身の政治活動も大きな変化を遂げることなり、ブリンクホルスト氏の推薦もあり、翌年の春、3週間の欧州共同体(EC)諸機関の訪問旅行という経験もさせていただきました。それ以降、私の駐日EU代表部との関係は、官房長官、外務大臣そして衆議院議長という立場を通して継続することになります。その間、現EU大使であるハンス・ディートマール・シュヴァイスグート氏に至るまで計6人の歴代代表と知己を得ることになります。

私と代表部との関係で記憶に残るのは、1990年に第5代代表として赴任したジャン・ピエール・レング氏が駐日代表として初めて天皇陛下に信任状を棒呈された時のことです。それまで、ECは、国際機関として扱われており、その外交使節団の長の信任状は、外務大臣に提出されていました。しかし、ECには通商政策を含む主権の一部が加盟国から移譲されており、また先進国首脳会議にもEC委員長が出席していることから、伝統的な国際機関とは性格を異にすると日本政府が判断したのです。当時、私からも外務省に働きかけを行い、これにより駐日代表は日本において大使としての地位を得ることとなりました。

また私は、外務大臣として2000年1月にパリで「日欧協力の新次元――ミレニアム・パートナーシップを求めて」という演説を行いました。その演説の最後で提案した「日欧協力の10年」が、その後「日・EU協力のための行動計画」として具体化され、今日の日・EU戦略的パートナーシップ協定や経済連携協定締結への動きとなっていることは私の喜びとするところです。40年前には二者間貿易関係に特化していた日・EU関係が、多角的な、かつ地域的でグローバルな課題に共に対応するパートナーに発展したことは、大いに歓迎されるべき変化と言えるでしょう。

5年半に及んだ衆議院議長時代には、日・EU議員会議の日本開催や在京EU加盟国大使との定期的な懇談会を通じて、私の駐日EU代表部との関係も継続しました。また、私が政界から引退した後の2010年1月、母校早稲田大学で私のパリ演説10周年を記念した国際シンポジウムが開催された折、ブリンクホルスト氏とこれまたEUの友人であるゲオルグ・ヤルゼンボウスキー前欧州議会対日交流議員団長と共に、学生諸君と対話できたことは、私の対EU交流の良き思い出となっています。その際、シンポジウム会場に集まった学生諸君に「個人的な友人をヨーロッパに持つことの大切さ」を訴えることが出来たことは、今でも良かったと思っています。

「記憶に深く残る1991年の通商交渉」

一般財団法人国際貿易投資研究所理事長/元通商産業審議官
畠山 襄(はたけやま・のぼる)

駐日EU代表部が設立40周年を迎えましたことに心からお祝い申し上げます。EUは人類が創造した組織の中で最も成功したものであります。

当時、EU域外の人は、EUが周囲に非常に高い障壁を巡らせて「ヨーロッパの要塞」になるのではないかという懸念を持ちました。しかしながら、EUは熱心に自由貿易を追求する組織であることが明らかになりました。

日本とEUの経済関係は双方にとって常に重要な課題であります。1970年代には貿易摩擦が高まりましたが、その後日欧の産業協力が強化されました。また、1991年には日本とEUの首脳協議(サミット)がスタートしました。

私は、その年にロンドンで行われた、日本車の対欧輸出に関する日・EU間の深刻な通商交渉の場におりましたことを思い出します(※1)。当時、EU内の数カ国が日本車の輸入制限を行っていました。他方、EUは域内流通規制を撤廃しようと真剣に努力していました。この流通規制の自由化こそが、「EC92」(域内市場統合)の中核と見なされておりました。ですから、放っておけば日本車は裏庭から、つまり日本車の輸入制限をしていない国を通じて、輸入制限をしている国へ忍び込ませることが可能だったのです。そこで、EUは日本政府に対して日本車の輸出自主規制を行うよう要求し、日本政府は20世紀末まで規制することで合意しました。域内市場統合の改革の成功に繋がったこれらの交渉に、フランツ・アンドリーセン閣下(※2)と共に主要な交渉者のひとりとして参加できたことを、私は大変光栄に存じております。

日本もEUも過去を懐かしんでばかりではいられません。本年5月には、日・EUのFTA交渉の早期妥結の重要性が再確認されました。駐日EU代表部は日本とEUの関係を支える重要な窓口であります。私は今後とも代表部が、日・EU関係を一層強化するという大きな役割を果たしていかれることを強く希望いたします。

(※1)^ 畠山氏は1991年~1993年まで通商産業審議官を務められた。
(※2)^ オランダ出身のEC委員会メンバー。1981年~1993年までの全3期のうち、1989年~1993年は対外関係・通商担当の副委員長を務めた。