2024.5.10
EU-JAPAN
1959年、日本が倭島英二駐ベルギー大使を欧州経済共同体(EEC)に対する初代日本政府代表に任命した当時、数十年の時を経た2024年に、駐日欧州連合(EU)代表部が50周年を迎えることになると誰が予想できただろうか。
倭島大使(中央)ら日本政府代表団を迎えるEEC委員会のハルシュタイン委員長(左)(1959年10月19日、ブリュッセル)©European Communities, 1959
EECは黎明期にあり、EEC委員会などの諸機関は暫定的な組織だと考えられていた。同委員会の事務所も賃貸で、EECが数十年後も存続するかは誰にも分からなかった。
その後、EECから進化した欧州共同体(EC)委員会が日本に代表部を正式に開設するまで15年を要した。その背景には間違いなく、日本の経済成長と、1980年に88億ドルに達した日欧貿易赤字の急増があった。
実際に1970年代~90年代、日・EC関係は、ビデオレコーダー、工作機械、自動車など貿易上の懸念が中心となっていた。
両者関係の歴史、そして駐日代表部の役割は、絶え間なく進化してきた。最初の数十年は、なかなか進展しない状況に対する不満がしばしば影を落とした、厳しい関係であったことは確かだ。
ただ、「進展」もあった。物理的には、駐日代表部の場所が都内のオフィスビルの一室から、ベルギー大使館やアイルランド大使館にも近い千代田区三番町の専用ビルへと移り、その後、港区南麻布のEU所有の敷地に新設した現在のヨーロッパハウスへと引っ越しをした。
貿易赤字と日本の対EC輸出急増に関する初期の困難な議論を乗り越えると、日・EC関係も動き始めた。双方にとって定期的な協議の必要性が明確になると、1973年にいわゆる「ハイレベル協議」が開始され、翌1974年7月に、駐日EC委員会代表部が設置された。
時に緊張が高まる経済関係への対応とともに、駐日代表部にとって、その存在および役割の周知と理解促進が常に主要な課題だった。駐日代表部への理解を得ることの難しさを象徴する面白いエピソードがある。スタッフが日本側の関係者に電話をかける時に「EC代表部の〇〇ですが」と名乗ると、電話の向こうの多くの人が「医師代表部??」と困惑していたらしい。まだ、ECの存在が浸透しておらず、同じような発音の「医師」とよく間違われたようだ。
ただ、東京に駐日代表部の事務所を構えたことで、高官や閣僚・欧州委員の相互訪問を行う際、会議やプログラムをより効果的に開催することができるようになり、二者間関係の強化に大いに役立った。加えて、日本の政治、経済貿易、科学技術開発などの進展に関する東京からの定期的な報告が、二者間関係の発展加速に貢献したことは間違いない。これらの積み重ねが、1991年7月の「日・EC共同宣言」につながり、閣僚級および首脳級の協議を原則毎年行うといった二者間会合のリズムを定めることとなった。
二者間関係の促進における駐日代表部の役割は、会議の開催や報告に留まらなかった。 BtoB(企業間取引) を支援する対日輸出促進キャンペーン (最後のキャンペーンは 1994 年に発足した「Gateway to Japan」)や、欧州企業の幹部候補を日本に招き、日本語を学びながら日本のビジネスや商慣行などに関する研修を提供する「欧州ビジネスマン日本研修プログラム」において、駐日代表部は重要な役割を果たした。
パブリック・ディプロマシー(広報文化外交)、特に日本国民のEC/EUに対する理解と関心を高めることは、常に駐日代表部の業務の一部であったが、画像やビデオ、短いメディア文書などで溢れかえる今日のメディア環境においてはますます重要になっている。駐日代表部がEUを解説する際に提供する情報が日本の人々の琴線に「触れる」ように、文化・社会外交に資源をますます集中させている。
駐日代表部の役割は、EC/EUの組織体制と非常に密接に関連していた。条約改正は対外関係における権限の変更を意味しており、特に1993年発効のマーストリヒト条約(欧州連合条約)、そして2009年発効のリスボン条約(欧州連合条約および欧州共同体設立条約を改正するリスボン条約)は、ブリュッセルと駐日代表部の双方に大きな変化をもたらした。
マーストリヒト条約は、ECからEUへの変革をもたらしただけでなく、「共通外交・安全保障政策(CFSP= Common Foreign and Security Policy)」を導入し、「欧州3共同体※」と「司法・内務協力」も合わせて EUの有名な三本柱構造も定められた。これにより、EU の対外事務所の管理と EU 対外関係政策の政治的側面の対応を引き継ぐ新しい部署がブリュッセルに設立された。
※ 欧州3共同体:欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(Euratom)
東京では、この新体制の下、EU加盟国の代表と駐日代表部の間におけるEU関連の調整の役割が強化された。
しかし、最大の変化はリスボン条約によって起きた。リスボン条約はEUに単一の法人格を付与し、新たな役職として「外務・安全保障政策上級代表」(欧州委員会副委員長も兼務、HR/VP)を設置した。また、上級代表に仕え、補佐する組織として「欧州対外行動庁(EEAS)」が設立され、加盟国の外務省と完全に同等なEU独自の外交組織となった。
EUの代表部は現在、ほとんどの第三国において大使館と同様の地位を有しており、EU大使は大半の国において、各国大使と同様に外交官名簿や国際儀礼(プロトコール)に掲載されている。
注目すべきは、HR/VPのEU外務理事会議長としての役割、そして対外関係におけるEU代表者としての声が、EU大使および第三国代表部の役割に反映されていることである。両者はともに、受入国におけるEU加盟国代表を調整し、EU全体を代表して発言する役割と義務を負っている。
象徴的なことはさておき、EUと日本にとって両者関係の重要性は常に高かった。貿易はもちろんのこと、最近では政治協力や法の支配といった共通の価値観への関心が原動力となり、国際貿易関係、科学、教育、国際安全保障といった多様な分野の共通の課題に協働で取り組むようになった。
こうした日・EU関係の成文化は必ずしも迅速とはいえないかもしれないが、2019年に発効した経済連携協定(EPA)、同年に暫定的適用が始まった戦略的パートナーシップ協定(SPA)、そして2019年に署名された持続可能な連結性及び質の高いインフラに関する日・EUパートナーシップ 、2021 年に発足したグリーン・アライアンスおよびデジタルパートナーシップなど、この8年間で大きく加速した。地政学的状況の変化、そして最も深刻であるロシアのウクライナへの不法侵略は、日・EU関係をさらに強固にし、経済協力と安全保障協力の両方を拡大する意志をさらに強めた。
EUにおける日本の重要性は、東京の駐日代表部に派遣した外交官や大使のレベルにも反映されていた(別表参照)。赤坂に最初の事務所を設置したエンディミヨン・ウィルキンソン氏や、1974年から1977年にかけてEC委員会の初代駐日代表部代表として着任し、日・EC関係を統括したヴォルフガング・エルンスト氏のような、日本専門家や経験豊富な交渉官も含まれていた。また、1987年から1989年までの代表を務めたオランダのアンドレアス・ファン・アフト元首相のように、リスボン条約以前も、代表は必ずしもEC/EU職員ではなく、関心とレベルに応じて選ばれていた。
日本側においても、駐日代表部はEC/EUを代表する組織として認められており、1987年5月9日に開催されたローマ条約締結30周年記念レセプションには、当時の中曽根康弘首相が出席。最近では2022年5月にウクライナを支援するチャリティーイベントが駐日代表部で開催された際、岸田文雄首相が出席している。
日・EU関係の将来と、駐日代表部の外交活動によるその基盤は、前述した豊かな歴史に基づくものであると同時に、今日の不安定で困難な地政学的状況がもたらす課題と表裏一体でもある。ブリュッセルと東京を結ぶ実質的なコミュニケーションを担う駐日代表部の役割は、二者間関係のサポートだけでなく戦略的アクターとしても成長し続けるだろう。
2024.12.5
FEATURE
2024.11.30
EU-JAPAN
2024.11.15
WHAT IS THE EU?
2024.11.7
EU-JAPAN
2024.11.6
EU-JAPAN
2024.10.21
FEATURE
2024.10.28
Q & A
2024.11.6
EU-JAPAN
2024.11.7
EU-JAPAN