2020.3.13
EU-JAPAN
異なる文化の間で生き、平和共存のために身を捧げた人々の足跡を今に伝えるために、欧州5カ国で7つの石庭を仲間と共に造った日本人女性がいる。1・2月号の「注目の話題」で紹介した、EUが掲げる理念の礎である「パン・ヨーロッパ」の在り方に共鳴し、シュミット村木眞寿美さんが日本の美意識を反映させて表現したかった世界とは――。村木さんの石庭づくりに託す思いを語ってもらった。
「世界をどう結ぶか、異なった文化を背負う人々がどう分かり合えるか」――ドイツ・ミュンヘン在住のノンフィクション作家、シュミット村木眞寿美さんが数十年来、追い続けてきたテーマだ。村木さんの著作には、欧州統合を目指してパン・ヨーロッパ思想を提唱し、後に「欧州連合(EU)の父」とも呼ばれたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの母・光子が残した手記の編訳をはじめ、クーデンホーフ=カレルギー家の評伝、あるいは彼らと同時代にパン・ヨーロッパ運動へ身を投じた食肉加工職人、カール・ワイデル・レイモンの生涯を描いた伝記など、国際色豊かな作品が並ぶ。
自らも日本とドイツを行き来し、パン・ヨーロッパの考え方に感銘を受ける中で、村木さんは次第に「文化の狭間で人間への愛を失わずに生きた人々の足跡を、時代の意志として残したい」との願いを強くしていった。それはやがて、紙や机の領域から、よりありのままの自然に呼び戻された所で、結実してゆく。クーデンホーフ=カレルギー家が住んだロンスペルク城の再建計画と、日本の美しい文化を通して平和を祈念した石庭づくりの旅である。
もともと村木さんは、明治時代に“御雇外国人”として来日した医師、エルヴィン・フォン・ベルツと彼の妻・花の生涯に関する調査のために、何回もチェコのカルロヴィ・ヴァリイ(ドイツ語名:カールスバード)を訪ねた。自宅のあるミュンヘンからチェコへ入国するには、複数のルートがある。一度、日本人女性ミツコの住んだ城がある町に寄ってみようかという軽い気持ちで、現在ポビェジョヴィツェと呼ばれている旧ロンスペルク経由の道を選んだ。そして図らずも、住人が追われて略奪され、無残な爪痕を残して立つ廃城を目の当たりにすることになったのだ。その荒廃ぶりに衝撃を受け、その後、幾度もポビェジョヴィツェを訪れた村木さんは、城だけでなく町全体が著しく寂れてしまった訳を知ろうと、同地に関する文献を探した。
第二次世界大戦後、ズデーテン地方(チェコ西部のドイツと接する地域)で住民の大半を占めていたドイツ人は、ことごとく強制退去させられていた。光子の長男ヨハネスとその一家、そして身を寄せていた次女オルガも例外ではない。荒れ果てた城は、自然の風化でもなく、戦争の爆撃でもなく、人々の怨念が生み出した産物である。1990年代、隣人同士さえもが殺し合った旧ユーゴスラヴィア内戦と相まって、村木さんの心中にあったのは「このまま放っておくことはできない。誰が城を壊したかを語るより、城を蘇らせて、平和の象徴にしたい」という突き動かされる思いだった。
資金集めと資金管理、人的・法的問題などが錯綜して城の再建は行き詰まり、目下中断されている。今までに、城の本丸の3部屋、南翼の外壁、また作曲家のベドルジハ・スメタナが家庭教師として住んでいた建物を修復し、後者は案内所として、訪れる人々に町と城の歴史、そして異民族平和共存の意味を伝える場として使われている。村木さんが始めた「平和の象徴」を具現化する活動は、この後も、石庭づくりという形で継続されることになった。
村木さんが前述の花・ベルツ夫妻について執筆していた頃、ちょうど東欧は1991年末のソ連崩壊を迎え、激動の混乱期に突入していた。日本で西洋医学の発達に貢献したベルツ医師と、彼の日本人の妻・花を象徴する“何か”を残したい。人種や文化の異なる人々が共に暮らすことが難しい時代に、愛と信頼をもって生きた彼らの生涯を、いったいどのような形で表せるだろうか?
折しも、愛知県からバイエルン州に河川の近自然工法の研修に来ていた造園技術者たちと知り合いになった。幸運だったのは、村木さんが温めていた希望に耳を傾けてくれた彼らと分かり合えたこと。そして、ロンスペルク城再建計画に並行して、まずは花・ベルツを記念した石庭づくりが始まったのだった。
愛・地球博(愛知万博、2005年開催)で日本庭園の設計を担当した、庭園作家・野村勘治さんらの惜しみない協力を得て実現。チェコを皮切りに、その後ドイツ、スイス、オーストリア、ハンガリーで、パン・ヨーロッパを象徴する、日欧の歴史と文化が見事に調和した7つの石庭が誕生した。
野村さんがこだわったのは、きちんとした本格的な石組みである。現地で採れる石を使い、人の手で完成させた後も、周囲の自然に溶け込んで一つの世界を成すのが日本の石庭だ。そして村木さんが特に意識したのは、庭を円形にすること。丸い形は「和」や話し合いを意味し、ひいては誰もが到達したい、戦争のない平和な世界を象徴している。村木さんはここでも一冊を費やし、それぞれの石庭が出来上がっていく過程を克明に記録している。
村木さんは自著『ヨーロッパ石庭づくりの旅』の中で、次のように記している。「願わくば、どの大陸に住もうとも、世の移り変わりが織りなす仮の衣装を脱いだ時に、残された真心で人は分かり合い、助け合っていけるはずなのだ。伝統を養分として普遍のテーマを抱き続ける限り、石庭は作られ続け、その美を深めていくだろう。〈中略〉私たちは、お互いに銃を突きつけ合うために生まれて来たのではない。違いを尊重して、共に、平和に生きるために生まれてきたのだ。そのようなことを、日本の美を通して表現してきたのが、私の石庭である」。
1998年 花・ベルツ日本庭園(チェコ カルロヴィ・ヴァリイ)
2001年 交竜の庭(ドイツ フルトイムヴァルト)
2003年 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー記念日本庭園(スイス グシュタード)
2008年 クーデンホーフ・ミツコ記念日本庭園(オーストリア メードリンク)
2009年 石庭、パン・ヨーロッパ枯山水(ハンガリー ショプロン)
2013年 ヴァーレンの鶴(ドイツ メクレンブルク=フォアポンメルン州ヴァーレン)
2015年 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー記念平和の石庭(チェコ ポビェジョヴィツェ)
地理的にも政治的にも広大で複雑な欧州を、一体的にまとめ、協調への道を目指す運動の草分けとなったリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー。彼が撒いた種は、さまざまな障壁を越えながらも、現にEUとなって開花している。ドイツを第二の故郷とし、自らも欧州市民である村木さんが、EUに寄せる思いとは。
「国々の統合や多民族の共存は、一朝一夕に実現するものではありません。それは一大プロジェクトであり、忍耐を要するプロセスです。むしろ茨の道かもしれません。しかし、希望は捨てないこと。次の世代のためにも長い視野に立ち、いろいろな視座を持って人々との共生を考えるのは、私たち人類全体の課題ではないでしょうか」
壮大なテーマを熱く語ってから、村木さんは苦笑しながら続けた。「これまで私は物書きとして、ドイツのバイエルン州と、チェコの西ボヘミアを行ったり来たりして、国境の両側で多くの友達ができました。そういう人間にとって、国境のない、平和な世界でなければ困るのですよ」。ベルリンの壁崩壊や、そして東欧諸国のEU加盟――。それ以前の分断された欧州の姿を知っている村木さんは、今パン・ヨーロッパが実現していることに少なからず感動を覚えるという。
※本稿のインタビューは、公益財団法人渋沢栄一記念財団の渋沢雅英理事長のご厚意により、渋沢史料館にて行われた。
プロフィール
シュミット村木眞寿美 Masumi Schmidt-Muraki
1942年、東京生まれ。早稲田大学文学部大学院芸術学科卒業後、ストックホルム大学、ミュンヘン大学に留学。通訳・翻訳業のかたわら執筆活動を続け、国境を超えた日欧の文化交流に貢献し、1998年草津ベルツ賞、2015年外務大臣表彰、2017年「橋を架ける人の賞」(ボヘミア・ババリア・センター)受賞。カルロヴィ・ヴァリイとポビェジョヴィツェの名誉市民。著書は上記のほか、『「花・ベルツ」への旅』(講談社)、『ロースハムの誕生 アウグスト・ローマイヤー物語』(論創社)、『左手のピアニスト ゲザ・ズィチから舘野泉へ』(河出書房新社)など多数。
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