2020.11.26
EU-JAPAN
2020年9月に駐日EU代表部に着任したハイツェ・ジーメルス新EU公使・副代表。少年時代は漢字に魅入られた日々を過ごすとともに、父親の影響を受けてEUの理念を心に刻んだという。約20年ぶりに再び日本で働くことになったジーメルス公使に、仕事への抱負や日本に対する思いを聞いた。
欧州連合(EU)の一員として再び日本に駐在できることをうれしく思います。私は1996年からの3年間、そのころはまだ駐日欧州委員会代表部と呼ばれていた、現駐日欧州連合(EU)代表部に勤務していました。当時の日本とEUはより良い貿易関係を構築することを切実に望んでいましたが、なかなか一筋縄ではいきませんでした。貿易評価メカニズムや規制緩和対話などいろいろな試みを重ね、市場開放や貿易円滑化を目指しました。
しかし、今は日本との間には経済連携協定(EPA)や戦略的パートナーシップ協定(SPA)が存在し、パートナーシップの基盤がしっかりと構築されています。副代表として再び日・EU関係に携わる私の任務は、日本とEUが築いたパートナーシップを具体的に進めていくこと、そして、EPAとSPAで設定した数々の目標の達成に貢献することです。
EUで長年働いた経験を通して、私たちの仕事は政策を策定したり遂行したりするだけではないということを実感しています。ブリュッセル本部での仕事でさえ、その5割は、私たちがやっていることは何なのか、なぜその政策を進めるのか、なぜそれほどまでに重要なのかを、共に取り組んでくれる人たちに間違いなく理解してもらうよう、説明することなのです。ましてや、EUの外で、EUを代表して働くからには、説明を尽くしていかなければなりません。そして今、私の前には日本という重要なパートナーがいます。これまで自分が携わった通商政策をはじめ、消費者政策、海洋政策、エネルギー政策での経験を活かしながら、日本の皆さんと話し合い、共に取り組みを進めていきたいと思っています。
日本は国際社会の一員として、パートナーたちと連携して取り組みを進めることを重視しています。多国間の場に加え、例えば、「自由で開かれたインド太平洋」構想では、日本は地域的な連携も図っています。
国際的な秩序を維持するために、過去70~80年間を費やして、国連や世界貿易機関をはじめとする国際機関を創り、協力を図ってきましたが、世界が複雑化する中、70年かけて培ってきたシステムは多くの課題を抱えています。日本もEUも、国際的なルールに基づいた体制を支持しており、それがこれまでと同様に機能し続けることに取り組んでいます。同じ志を共有する日本とEUは真のパートナーであり、二者間の枠を超え、例えば第三国においてなど、協力する余地がたくさんあります。
コロナ禍により、世界は一変しました。私たちは経済が崩壊しないようあらゆる手段を取らなければなりません。EUは復興基金「次世代EU」と次期多年次財政枠組み(MFF)を合わせた包括的なパッケージを打ち出し、「欧州グリーンディール」の推進を本格化しようとしています。日本とEUは、気候変動に関して、2050年までにCO2排出量を実質ゼロにするという目標を共有しており、双方は、気候変動対策を経済成長につなげることの重要性に大きな関心を持っています。環境技術でイノベーションに取り組む上でも、日本とEUが協力することの意義は非常に大きいと考えています。それは将来を見据えて経済を強化するものであり、雇用創出の促進につながります。
私にとって、EUで働くのはいわば当然の帰結でした。若きドイツ人青年であった父は第二次世界大戦後、戦争に終止符を打ち、新しい欧州を創るプロジェクトに参加すること、つまり欧州共同体(EC)で働くことを決意し、ベルギー・ブリュッセルにやってきました。父のおかげで私は欧州が一つになることの大切さを本当に理解し、信じることができるようになったのです。
父は私をフランス語の幼稚園に入れ、その後ヨーロピアン・スクールという学校に通わせました。私はそこでさまざまな国籍の子どもたちと出会い、EUや欧州統合についてのみならず、他の言語を話す他の文化の人々と一緒にいることがどれほど楽しいのかを学びました。はるか昔、加盟国が6カ国だけだった時代です。そのうち、ロベール・シューマンやジャン・モネの理念を体現する組織で働きたいと自然に思うようになりました。
大学を卒業後、採用試験を受けてEUの機関の一つである欧州委員会に入るまでには他の仕事にも就きましたけどね。それも良い経験でした。
小さいころから家には「漢字」の書かれたいろいろな物があり、その美しさに魅かれ、いつか読めるようになりたいと思っていました。学校で先生から放課後中国語を教えてくれる所があると紹介され、夜間のクラスに通い始めました。大学では、日本語も学ぶ機会があり、やってみたら非常におもしろかったのです。もともと日本に興味があり、日本に関する本をたくさん読んでいましたし。
しかし、私が大好きな漢字は共通していますが、日本語と中国語は完全に異なる言語。結局、どちらか一つだけに絞ることにし、日本語と日本史を専攻することに決めました。
学生時代に、日本語のコンテストに応募したところ、ドイツ人の私が、ベルギーで行われたそのコンテストで優勝してしまいました(笑)。主催は国際交流基金と文部省だったと記憶していますが、優勝賞品は4週間の、私にとっては初めての日本旅行でした。1987年9月のことです。世界各地の優勝者と共に2週間のガイド付き団体ツアーに参加した後、残り2週間は自由に行き先を選べたので、私は大好きな京都に行きました。
あれから33年経った2020年9月。再着任して間もない私は、いてもたっても居られない思いで、また京都に向かいました。にぎやかな烏丸通を抜け、東本願寺にたどり着き、まさに33年前と同じように本殿の階段に座っていろいろなことに思いを馳せたのです。喧騒から離れた静寂の中、ゆったりと時が流れる至福の時間でした。振り返ればあっと言う間に過ぎ去ったなあという33年の感慨で、俳句までしたためました。
Between then and now / Thirty-three years have vanished / Kyoto in autumn
[訳] かの日より / 三十三年去りし / 京の秋
もう一つ好きな街は神戸です。大学卒業後、養殖真珠事業への進出を目指すアントワープのダイヤモンド会社に採用され、研修で6カ月間、神戸に送られました。当時は外国人が少なく、私は学校で学んでいた日本に関する知識や日本語を、そこで集中訓練させてもらいました。とても魅力的な街で日本語だけが飛び交う環境の中、濃密な時間を過ごしたことは私にとって忘れられない思い出となっています。
私たち家族は、日本での新生活をとても楽しみにしています。私も子どもたちも自転車が大好きなので、サイクリングロードとして自転車専用道路があったり、自転車に乗る人が増えたりしていることを嬉しく思っています。そしてもちろん、日本の食を堪能することも楽しみにしています。
プロフィール
ハイツェ・ジーメルス Haitze SIEMERS
駐日EU代表部 公使・副代表
日本学の学位を取得後、学術機関や⺠間企業に勤務した経験を持つ。1993年にEUに入る。欧州委員会で日・EU関係を担当し、ブリュッセル勤務と東京駐在の両方を経験。その後WTO閣僚会議(シアトル、ドーハ)や消費者政策を担当し、海洋政策の基礎を築く中心的な職務に従事。2008年にEU海洋政策の実施を担う部署で「海洋空間計画」に関するEU法制の整備や「国際海洋ガバナンス」に関する体系的な政策の策定を先導。2018年〜2020年に欧州委員会のクリーンエネルギー技術担当部署を率いる。2020年9月から現職。
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