2014.11.21
EU-JAPAN
2014年9月、2人の外交官が新しく駐日欧州連合(EU)代表部に着任した。ジョナサン・ハットウェル副代表・公使と、レオニダス・カラピペリス科学技術部部長は、共にこれまで日本とEUの関係強化に力を尽くしてきたプロフェッショナル。着任して約2カ月、日本での役割や今後の日欧関係の見通しについて話を聞いた。
ジョナサン・ハットウェル副代表・公使
ジョナサン・ハットウェル駐日EU代表部副代表・公使は、ブリュッセルの欧州委員会本部や欧州対外行動庁(EEAS)を拠点に、世界の諸地域との関係に携わってきた生粋の外交官である。朝鮮半島、カナダ、アフガニスタン、中南米などの事情に精通し、2006年8月からは6年間にわたって日本・韓国・オーストラリア・ニュージーランド課の要職を務めてきた。そして2014年9月からは、駐日EU代表部副代表の重責を担っている。「着任とほぼ同時に大使が離任し、次期大使の着任まで臨時代理大使を務めました。多少不安もありましたが、プロ意識の高い同僚やスタッフの助言と助力で、当初懸念していたよりもスムーズに任務をこなすことができ、ほっとしています」。日本とEUの関係をさらに強化するのが、ハットウェル副代表に与えられた使命。出張での来日経験は多々あるが、日本で生活するのは初めてだ。
「21世紀はアジアの世紀であり、ここは世界が変化する最前線。最重要地域であるアジアの視点を大切にしてきました。ブリュッセルでの経歴は役立っていますが、日本の専門家としてはまだまだ。これから学ぶべきことはたくさんあります」。
ロンドン大学卒業後、英国政府のEU機関向け人材育成プログラム「ヨーロピアン・ファスト・ストリーム」に参加し、欧州委員会の産業総局からキャリアを始めた筋金入りのEU官僚である。対外関係総局に移ってからは、さまざまな地域と分野を担当し経験を積んできた。長く担当したアジア太平洋地域を2012年に一度離れ、ラテンアメリカやカリブ海地域へも目を向けた。その際には、アジア以外にもダイナミックな地域があるのだと気づいたという。その後、自ら選んだのが現在のポストだった。「本部に10年間いたので、そろそろまた外国の代表部に赴任する時期だと感じていました。実は、その時日本のポストの募集はなかったため、他地域に応募していたのですがうまくいかなかったところ、急に日本に空きが出たのです。募集案内を見たときには『これこそ自分の仕事だ!』と思いました」。
父が英国人で母がイタリア人のハットウェル副代表は、二重国籍である。「生まれも育ちも英国・バーミンガムですが、家庭ではバイリンガルで育ちました。毎年夏になると、イタリア北部のパルマ近郊にある祖父母の家で約4週間を過ごしたものです。パルマは生ハムやパルメザンチーズで有名な美食の街で、作曲家のジュゼッペ・ヴェルディを生んだ文化的に豊かな地域です」。英国からイタリアまでは、もっぱら自動車で移動した。当時は70年代で、もちろん単一市場もユーロもない時代である。「道中にフランスやドイツを通過して、ヨーロッパ内の異なった言語や文化の存在を実感しました。国境ではもちろんパスポート検査と税関がありました。私の子どもたちには、想像もできない世界でしょうね」。
家庭では、英国人の夫人とは英語で話すが、子どもたちにはいつもイタリア語で話しかける。自分の経験に基づいた確信からだ。「バイリンガルであることは、私がもらった贈り物。他の言葉を理解することは、違う物の見方を授けてくれます。英語とイタリア語に加え、EUの業務用語の一つフランス語も話せますし、スペイン語やその他数カ国語を学びました。これから日本語に取り組みますが、難しい言語なのでベストを尽くすつもりです」。
これまで日本を担当していた時期には、交渉などで年に数回来日してきた。しかし観光の暇はなく、成田空港、駐日代表部、外務省、ホテル、ときどきレストランといった行動範囲だったという。「2011年の3月に、ようやく京都を訪ねて仏閣などを見学する機会がありました。観光ではありませんが、同じ年の11月にはキャサリン・アシュトンEU外務・安全保障政策上級代表(当時)と共に、仙台市など東日本大震災の被災地も訪れました。破壊された街の光景や、津波が押し寄せた小学校の逸話などに心を痛めたことは決して忘れません」。プライベートでの趣味は、読書、映画、旅行、外食。サッカーが好きで、テレビだけではなくスタジアムでも観戦する。子どもは3人ともティーンエイジャーで、全員が新しい日本生活から刺激を受けているようだ。
ハットウェル副代表は、かつて日本とEUの規制改革をめぐる交渉の当事者であり、またこれまで4回の日・EU首脳協議を裏方として成功させた経験もある。相手国としての日本を、どのように見ているのだろう。「非常にタフな交渉相手です。多くの欧州人は、礼儀正しく丁重なのは楽な相手だと思っていますが、実際には極めて有能かつプロ意識が高く、実に手強いのが日本のネゴシエーターですね」。そんなタフな相手との、忘れられない思い出がある。
2009年、チェコのプラハで行われた第18回日・EU定期首脳協議(サミット)で、ハットウェル副代表はサミット共同プレスステートメントの文言を日本側と交渉していた。気候変動に関する部分が難航、議論は長時間に及び、ようやく合意に至ったのは午前2時。交渉場所だったチェコ外務省は電灯も消え、残っているのは双方の交渉チームだけだった。「その時、チェコ外務省出身のメンバーが『上の階にバーがある。たぶん閉まっているけど、ビールなら手に入るかもしれないぞ』と言い出したのです。そして我々EUと日本の代表団は階上のバーへ乗り込み、交渉の終了を祝ってチェコの美味しいビールで乾杯しました(笑)」。実りある合意という目標を、双方が真剣に目指していたからこそたどり着けたゴールだった。
そんな晴れやかなひと時の背後で、ハットウェル副代表は交渉が停滞した時期も経験している。日本との交渉窓口となった2006年から、日本の首相が頻繁に変わった時期があった。「共通の価値や協働に関する合意はありましたが、実際の成果にはやや不満を感じていました。交渉の不調は一方だけの責任ではありませんが、日本の内閣の交代がプラスに働かなかったのも事実です」。
ところが2012年から2年の中断を経て、再び日本とEUの交渉の席に戻ってきたハットウェル副代表は、両者が一転して活発な対話を行っている現状に嬉しい驚きを感じている。
「包括的自由貿易協定(FTA)と戦略的パートナーシップ協定(SPA)の締結に向け、交渉が動いています。科学技術や危機管理などの対話も、ここ2年でダイナミックに進歩しました。こんな時期に交渉に貢献できるのは、自分にとってもチャンスだと思っています」。直近の成果を評価しながらも、個別の問題になるとハットウェル副代表はあくまで慎重だ。解決すべき問題は多く、まだまだ複雑な交渉は続く。
「意見の相違が少ない分野では進捗していますが、難しい問題は後回しになっています。特に政治、金融、教育、科学技術、環境などの分野ではさらに交渉を詰めていかなければならない。双方が実質的な合意を求めているのは明るい兆し」。ハットウェル副代表は、自身が日本にいる間に2つの協定が無事合意に至ることを期待している。「そして、個人的にも日本を旅行して文化をよく理解し、国際社会にいっそう貢献ができるよう、外交官としての力を磨きたいと思っています」。
レオニダス・カラピペリス科学技術部部長
ギリシャ出身のレオニダス・カラピペリス科学技術部部長は、今回で2度目の日本勤務となる。1995年から1999年までは駐日EU代表部(当時は駐日欧州委員会代表部)の広報部参事官を務め、1999年からはブリュッセルの欧州委員会研究・イノベーション総局で主に国際機関との関係を担当してきた。自らも物理学者であり、科学技術などのアドバイザーとして豊富な経験を持つ。今回は、科学技術分野での日本とEUの協力を推進することを大きな目的の一つとして9月に着任した。「15年ぶりに日本での勤務が始まって最初の仕事の一つが、10月に京都で開催された『科学技術と人類の未来に関するフォーラム』(STSフォーラム)に参加し、その関連で本部から総局長を迎えて第5回日・EU科学政策フォーラムを開催したことです。会場の国立京都国際会館は、1997年12月に京都議定書が調印された場所。広報部参事官としてその場に居合わせた当時を思い返し、時の流れを感じました。駐日EU代表部の事務所は移転しましたが、かつての同僚もいるので故郷に帰ってきた思いです。国際会議などで交流のある著名な科学者や省庁の方々との人脈も、こうして日本に戻ってきたことでいっそう深められるでしょう」。
最初の日本勤務から15年の月日が経った。この間日本と欧州はそれぞれあることを境に大きく変わったという。夫人が福島市出身の日本人である部長にとって、やはり最大の出来事は東日本大震災と原発事故だ。「震災当日、妻は娘を東京に残して実家の母を訪ねていました。私たちは何時間も連絡が取れず、不安なときを過ごしました」。カラピペリス部長は福島に親族を持つ立場から、復興を見つめる。「政治的な権威や専門家たちを、疑いもなく信頼していたのは過去の話です。福島の事故は、これからの日本のあり方を変えた出来事。科学がどこまで信用できるのか、誰が専門家で、誰が信用に足るのかが本当に問われています」。欧州も債務危機を経て、うぶではいられなくなった、という。
「前回の日本赴任時には、新通貨ユーロを日本に紹介しました。よりよい未来を目指した歴史的な一歩でしたが、その後ユーロも大きな試練を経験することになります。欧州もまた、甘い考えを捨てなければならなくなったのです。国家のエゴイズムを越えて、共通の目標に向かって進まなければなりません。欧州でも福島と同様に、政府や専門家の信頼性が問題になっています」。
カラピペリス部長が日本を離れていた15年の間に、世界でもさまざまな問題が持ち上がった。気候変動、エネルギー、伝染病、安全保障、経済格差など、グローバルな問題は山積みだ。「今は自国の力だけで生きていけるほど、強力な国はひとつもありません。国同士が、さまざまな危機管理に共同で取り組むようになったのは明るい兆候です。日本とEUが始めているサイバー対話や宇宙対話も、そんな流れの一例です」。
高齢化問題もまた、カラピペリス部長が注目する問題の一つ。世界で最も急速に高齢化する日本は、他の先進国のモデルとなる。「高齢化社会の解決策を、日本が世界にさきがけて見出さなければなりません。高齢者の生活を補助するロボットの活用など、興味深い研究も進んでいます。成熟した日本と欧州の社会が、共同で取り組むべき問題はたくさんあります」。
ギリシャの小説家であるニコス・カザンザキスの旅行記を読んで、日本に想いを馳せた少年時代。コーネル大学の博士課程で初めて発表した論文は、大阪大学出身の大学院生との共同執筆。その後フランスでマイクロエレクトロニクスを扱うトムソンCSF(当時)の研究者として日本との窓口となり、パリで出会った日本人の伴侶を得るなど、カラピペリス部長と日本との縁は古く、とても深い。日本の半導体産業が世界を席巻した80年代には、日本で大企業の工場を視察する機会もあった。「10年遅れの他の競争相手に追いつかれることはありえない、という自信たっぷりの言葉を憶えています。その後日本はいくつかの競争相手に追いつかれたどころか、追い抜かれてさえいます。しかし、総体的に見れば、日本が非常に革新的であることに変わりはありません。現在、日本はまだ過去の栄光にこだわっているようにも見えますが、世界は大きく変わりました。私は、日本が成熟した知恵と新しい技術を基に解決法を導き出すと信じています」。
1995年、広報部参事官として日本にやってきたのも運命だったのだろう。求人に気づいて教えてくれたのは、職場の友人で、応募書類を提出したのは締め切りぎりぎりだった。しかし、着任してからは学ばなければならないことが次から次へと降ってきた。メディアのこと、広報チームを率いていくこと、そして何より言葉がカラピペリス部長にとっての大きなチャレンジだった。「既に42歳でしたが、漢字の本を持ち歩いて毎日何度も開きました。それに、しばしば主語がはっきり書かれていない日本語の文法に戸惑いましたね」。この文法への疑問が、やがて日本の文化や社会への深い洞察を生むことになる。
日本語の「自分」とは、社会集団の一部としての私のこと。個人を基本として社会を形成する欧州の人々にとっての意味とは異なる。自分が決断しているのか、グループが決断しているのかを曖昧にするのが、この主語の不在であるとカラピペリス部長は見抜いたのである。「違う言語を学ぶというのは、新しい視点で世界を見ることなのだ、と再確認しました」。
「それでも、日本人とは共通点を感じます。昼の仕事中と、夜の居酒屋では別人になるのが日本人。美味しい物と酒が好きなのは、地中海人に似ています」。ブリュッセルで欧州委員会のワイン愛好会を立ち上げたほどワイン好きのカラピペリスさんは、実は日本酒も大好きだ。「大吟醸、吟醸、純米、山廃の違いや、米から生まれる香りの多彩さには驚かされますね。みなさん、日本酒が美味しい居酒屋さんをご存じでしたら、ぜひ教えてください」。
4年間の任期で成し遂げたいのは、科学技術・イノベーションの分野で日本とEUの研究協力を促進し、目に見える成果を挙げること。日本を再発見するため、日本語にもいっそう磨きをかけるつもりだ。「大好きな陶芸の世界も探究したいと思ってます。日本は愛好家にとって理想郷ですからね。陶芸教室にも通うことにしています」。仕事と趣味にかけるカラピペリス部長の情熱は、とどまるところを知らないようだ。
プロフィール
ジョナサン・ハットウェル Jonathan HATWEL
駐日EU代表部 副代表・公使
1991年ロンドン大学卒業、「European Fast Stream」に参加。1994年欧州委員会産業総局に入る。同対外関係総局朝鮮半島担当、駐カナダ代表部勤務、アフガニスタン担当などを経て、2008年日本・韓国・オーストラリア・ニュージーランド課課長。2011年より欧州対外行動庁(EEAS)アジア・太平洋本部日本・韓国・オーストラリア・ニュージーランド課課長、同アメリカ本部対中南米・カリブ海諸国関係課長を歴任し、2014年9月より現職。
レオニダス・カラピペリス Leonidas KARAPIPERIS
駐日EU代表部 公使参事官・科学技術部部長
英国サセックス大学卒業、米コーネル大学で博士号(物理学)取得。仏トムソンCSF(現タレス・グループ)勤務後、1988年に欧州委員会欧州情報技術研究開発戦略計画「ESPRIT」に参加。1993年同委員会研究・イノベーション総局(DG RTD)、1995年~99年駐日欧州委員会代表部(現駐日EU代表部)広報部参事官。その後DG RTDのアドバイザーとして国際協力などに携わり、2014年9月より現職。
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