2013.5.15
Q & A
毎年5月9日は「ヨーロッパ・デー」として、EU加盟国だけではなく、世界中のEU代表部でEUの創設記念行事が行われます。1950年のこの日、フランスのロベール・シューマン外務大臣がパリのドルセー岸にある仏外務省の「時計の間」で記者会見を行い、「シューマン・プラン」を発表しました。いわゆる「シューマン宣言」を行ったのです。このプランを基礎として1952年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が誕生しました。今日のEUの母体です。1958年には欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EAEC)が設立、1967年には3共同体の執行・決定機関などが統合され欧州共同体(EC)となりました。1993年には「欧州連合条約(マーストリヒト条約)」によってEUが誕生し、2009年以後は、最新の「リスボン条約」によって今日のEUは治められています。
1950年5月9日は、欧州統合にとってすべての始まりでした。そのため、1985年にミラノで開催された欧州理事会(EU首脳会議)は、5月9日を「ヨーロッパ・デー」として祝うことを決定したのです。
プランを最初に考えたのは、フランス企画院長官であったジャン・モネです。モネは、戦争に明け暮れてきた欧州を平和にするため、フランスとドイツ(当時は西ドイツ)間の戦争を物理的に不可能にする方策を考えました。彼は、右腕であったピエール・ユリ(後にEEC条約も起草)、エティエンヌ・イルシュ(後に第2代EAEC委員長)、さらに国際法の教授ポール・ルテールなどを集め、ひそかに少数の専門家による集中的な議論を行い、独仏の石炭と鉄鋼の資源を共同の機関の管理下に置くという案を取りまとめました。モネは、原案をジョルジュ・ビドー首相とシューマン外相に提案しましたが、ベルナール・クラピエ官房長の強い推挙を得てシューマンが採用したことによって、以後「シューマン・プラン」と呼ばれるようになりました。
モネは、第二次世界大戦後に創設された欧州経済協力機構 (OEEC、後にOECDに改組)や欧州評議会(Council of Europe)は、加盟国が拒否権をもつ「政府間機構」であり、管理する機関としては不十分であると考えていました。たとえ限られた分野でもその主権の一部を移譲する「超国家的機関」を作るべきであり、しかも欧州は一つのプランで一挙に統合されるわけではなく、具体的な成果を積み重ね、連帯を生み出す必要があると考えていました。最初に石炭と鉄鋼が選ばれた理由は、第1に、当時石炭が依然として重要なエネルギー源であり、鉄鋼は製造業、とくに軍事産業の中核だったからです。第2は、独仏国境沿いのアルザス、ロレーヌ、ザール、ルール地方には、多くの炭鉱と製鉄所が集中しており、その領土的帰属をめぐって両国がたびたび戦争を起こしてきため、その原因を取り除くことが重要だったからです。そこで、モネは、石炭と鉄鋼部門で、参加国に主権を移譲させ超国家的な管理を行う「部門統合方式」を考案しました。経済的な手段によって、戦争をなくすという安全保障上の目的を達成しようとしたのです。
3人の政治家がそのカギを握っていました。一人目は、シューマン仏外相です。彼は、普仏戦争でプロイセン領となったロレーヌから逃れた難民の子として1886年にルクセンブルクに生まれ、第一次大戦ではドイツの占領下、同国軍兵士として従軍し、ベルサイユ条約によってアルザスとロレーヌがフランスに返還されて初めてフランス国籍を取得しました。このような独仏の歴史の嵐の中で自分の人生が翻弄されてきたシューマンにとって「独仏問題」の恒久的な解決のために、モネの原案はまさに「渡りに船」でした。
二人目は、コンラート・アデナウアー西独首相です。プランが成功するか否かは、フランスのパートナーとなるべき西ドイツにかかっていました。そこでシューマンは、アデナウアーに事前の了解を秘密裡に求めました。1876年に独仏間にあるラインラントで生まれ、戦前ケルン市長を務め、戦後誕生したドイツ連邦共和国の初代首相を務めていたアデナウアーは、シューマン・プランが独仏の和解とドイツ主権の完全回復の手段としても重要であると認識し、即座に賛意を伝えました。
第3の人物は、ディーン・アチソン米国務長官です。ドイツの参加と並んで不可欠だったのは米国の支援でした。5月11日から開催されることになっていたロンドン三国外相会議を前にパリを訪問したアチソンに、シューマンはプランを事前に説明し、米国の支援を要請しました。プランに好意的であったアチソンの連絡を受けたハリー・トルーマン大統領も、西欧の結束を促すものとして大いに歓迎の意を示しました。
シューマン・プランを具体化する国際会議が6月20日にパリで開催され、仏独両国だけでなく、賛同したイタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを加えた6カ国が参加しました。
しかし、大国の英国は参加しませんでした。英国の参加をめぐって英仏交渉が行われましたが、フランスが求める事前の主権移譲への同意は「白紙委任状」を与えるものであり、英国はそれを受け入れることができないと、6月2日に交渉は決裂したのです。
6月25日には朝鮮戦争が勃発し、ドイツの再軍備問題が急浮上しましたが、6カ国は1951年4月18日ECSC条約(別名パリ条約)の調印に漕ぎつけました。各国内の批准を経て、ECSCは1952年8月にルクセンブルクに設立され、最高機関の初代委員長にはモネが就任しました。
ECSCは、その狙い通りに、欧州のみならず世界の戦争の原因となってきた独仏間の戦争を永久に不可能にするために、紛争を、軍事的手段ではなく、ルールに基づく決定と裁判所による司法的手段で、解決することを定着させることに成功しました。機構の発展も伴い、加盟国も当初の6カ国から5次の拡大を経て27カ国になり、「不戦共同体」は、冷戦時代「鉄のカーテン」で対峙していた諸国を含めて欧州全域に拡がりました。シューマン・プランを起源とし、今日のEUに具現化されている欧州統合は、それまでの国際関係にない新しい仕組みとルールを導入し、「不戦共同体」を構築したことが、国際社会に対する最も重要な貢献です。2012年ノーベル平和賞がEUに授与されたことは、そのことを世界に知らしめました。5月9日は、そのことを想起する記念日なのです。
監修・執筆=田中 俊郎(慶應義塾大学名誉教授)
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