2013.5.14
FEATURE
2013年4月8日、マーガレット・サッチャー元英国首相が亡くなった。英国政府は同月17日、1965年に死去したウィンストン・チャーチル元首相の国葬に準ずる葬儀をもって彼女を送った。
サッチャー女史は、1979年5月の総選挙で保守党を勝利に導き、英国の憲政史上初の女性首相となった。以後、1990年11月に辞任するまで約11年間にわたって首相を務め、欧州共同体(EC、当時)を含め内外に多くの影響を及ぼした。
就任直後から、サッチャー首相は、英国の対EC予算の赤字問題を取り上げた。ECは農業共同体とも呼ばれるほど予算に占める共通農業政策関連支出の割合が高いため、農業生産が少ない英国の対EC予算は、拠出に比べて受け取る補助金が少なく構造的に赤字であった。「英国病」に悩んでいた国内経済を再建するため「小さな政府」を標榜(ひょうぼう)する彼女にとって、この赤字を看過できるわけがなく、欧州理事会(EC首脳会議)で「われわれの金を返せ」と返却を繰り返し迫った。この問題がたびたび蒸し返されたことによって1980年代前半のECの決定は遅滞し、最終的に決着したのは1984年6月、フランソワ・ミッテラン仏大統領の提案で英国の対EC赤字の約66パーセントを恒常的に返却する仕組みに合意した時であった。サッチャー首相の粘り勝ちであった。
1982年4月2日に英領フォークランド諸島がアルゼンチン軍によって占拠されると、サッチャー首相は直ちに艦隊を南大西洋まで派遣し、6月14日には奪回に成功した。国際秩序を脅かす勢力に対しては断固たる手段も辞さないことを証明するとともに、低迷していた政権支持率も急上昇し、長期政権の基礎を築くことになった。その間、サッチャー首相は、ロナルド・レーガン米国大統領の支援を取り付けただけでなく、対アルゼンチン禁輸にEC外相理事会の同意も得た。1カ月後、イタリアとアイルランドが禁輸から脱落したが、他の加盟国は英国への支持を継続した。
しかし、禁輸支持獲得の裏では、苦い経験もした。5月18日のEC農相理事会で、農産物価格をめぐって英国は事実上の拒否権にあたる「ルクセンブルクの妥協(※1)」を援用したが、「それは死活的な利益でない」と特定多数決に付され、押し切られた。
サッチャー首相の怒りが頂点に達したのは、1985年6月のミラノ欧州理事会で、機構改革をめざすEC基本条約の改正発議が「手続き問題」として単純多数決に付され、当時の加盟国10カ国中、賛成7、反対3(英国、デンマーク、ギリシャ)で、条約改正のための「政府間会議」の招集が決定されたことであった。1975年の第1回以来、欧州理事会では首脳たちの合意で決定が行われ、票決に付されることはなかった。この前例のない初めての票決にサッチャー首相は敗れたのである。超国家主義に反対するサッチャー首相は政府間会議へ代表を送ることを拒否するのではないかと懸念されたが、結局英国も参加した。
1985年の政府間会議から、単一欧州議定書が生まれ、1992年末までに域内市場(国境なき欧州)を完成させることになった。新自由主義的な経済政策を展開するサッチャー首相にとって、非関税障壁を撤廃し、大きな欧州単一市場での競争は歓迎できるものであった。域内市場を完成するための指令の採択には、新たに特定多数決が導入されたが、人の自由移動、労働者の権利、税制などに全会一致が残されたのは英国の主張であった。しかし、それまで基本条約の枠外で進められてきた欧州政治協力(EPC)、経済通貨同盟(EMU)・欧州通貨制度(EMS)・欧州通貨単位(ECU)などが、単一欧州議定書によって基本条約に書き込まれた。ここまでが彼女の許容範囲であった。
サッチャー首相は国内では、既得権益にしがみつく労働組合と真っ向から対決し、1986年には「ビッグバン」と呼ばれる規制撤廃を行って金融街シティを活性化した。他方、域内市場を推進し、欧州統合を立て直したジャック・ドロール欧州委員会委員長(在任1985年~1995年)は、1988年7月に欧州議会で演説し、「10年後には、経済立法の、おそらく財政や社会立法の80パーセントまでが欧州起源のものになるであろう」と述べ、将来、加盟国の主権がより制限されたものになるとの見通しを披歴した。その2カ月後、サッチャー首相はブリュージュの欧州大学院で講演し、「この学校は勇気がある。私に欧州統合の話をさせるのは、ジンギスカンに平和共存の話をさせるようなものだ」と前置きし、「お互いに独立した主権国家が自らの意思で積極的に行動することこそが、ECを成功裡に建設する上で最善の道となる。欧州は、それぞれの国が、自らの習慣、伝統、アイデンティティを保つから強力になる」と述べ、欧州連邦のような枠組みに強く反対した。
「鉄の女」と称され、レーガン大統領とともに強い反共主義者でもあったが、1984年にソ連共産党政治局員として英国を訪問したミハイル・ゴルバチョフ氏を交渉相手として西側の指導者の中で初めて認知したのも彼女であった。その意味で、冷戦の終焉をもたらした政治指導者のひとりでもあった。しかし、中・東欧での動きに対応して1989年10月に場所も同じブリュージュで、「歴史は加速する。我々も加速しなければならない」と述べたドロール委員長に対して、サッチャー首相は、東西ドイツの早期統一、EMUによる単一通貨(後のユーロ)の発行、欧州社会憲章、欧州による独自の軍事的な手段の保有などに頑なに反対した。しかし、EMSの下での為替変動メカニズム(ERM)への英貨ポンドの参加および国内での人頭税の導入などによって党内基盤を弱くしたサッチャー首相は1990年11月に退陣を余儀なくされた。
後任のジョン・メージャー首相は、1992年に欧州連合(EU)条約(マーストリヒト条約)に調印したが、英国のEMUおよび欧州社会憲章からの適用除外を獲得した。その後、1997年の総選挙で勝利した労働党のトニー・ブレア内閣は、保守党よりも親欧州に大きく舵を切り、欧州社会憲章への参加、欧州安全保障・防衛政策(ESDP)の樹立も認めた。
その間、上院議員に叙せられたサッチャー元首相は、EU条約、とりわけEMUに激しく反対し、保守党内に反欧州の「ブリュージュ・グループ」が生まれ、彼女の主張の賛同者を増やしていった。首相を辞して20年以上も経った2013年1月、保守党のデービッド・キャメロン首相が、2015年に予想される総選挙に勝利すれば、EU加盟条件について再交渉をした上で2017年までに「英国がEUに残留すべきか否について」国民投票を行うと述べた。これもまた彼女の影響とみなすことができる。
(2013年5月1日 記)
著者プロフィール
田中俊郎
慶應義塾大学名誉教授。専門は欧州統合論、英国外交史。欧州統合に関する理解を深め、研究を促進することを目的とし、EU統合に関してフルタイムで教育活動を行う大学教員に対し欧州委員会が与える称号ジャン・モネ・チェアのなかでも、優れた個人に贈られるジャン・モネ・チェア・アド・ペルソナムを付与されている。
※本稿は執筆者の見解であり、EUおよび加盟国政府の公式の立場や見解を反映するものではありません。
(※1)^ 政策決定の方法を全会一致から多数決へ移行するとした条約の規定にもかかわらず、ある加盟国にとって非常に重要な国益に関する案件は、全加盟国の賛成を必要とするとした1966年1月の取り決め。
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