2017.10.5
FEATURE
3月のローマ条約調印60周年、7月の「単一欧州議定書」発効30周年など、2017年は欧州統合の発展において重要な節目の年となった。今号はEC/EUの「深化」を促進した単一欧州議定書の目的や意義などを考察する。執筆は、田中俊郎慶應義塾大学名誉教授/ジャン・モネ・チェア・アド・ペルソナム。
単一欧州議定書(Single European Act=SEA)とは、欧州共同体(EC)の域内市場を完成させ、欧州統合をさらに加速することを目的に、ローマ条約を改正するための条約である。1986年2月に調印、翌1987年7月1日に発効した同議定書には、EC諸機関の権限と運営規則の修正、研究・開発、環境および共通外交の分野における共同体の権限拡大などの内容が盛り込まれている。では、なぜローマ条約締結から30年余り経過した時点で条約の改正が必要になったのであろうか。
そもそもローマ条約の中核となる「欧州経済共同体(EEC)設立条約」は、第3条で共同体の政策として、①加盟国間のモノの輸入・輸出に関する域内関税と数量割り当てならびにこれらと同等の効果を有する他の全ての措置の撤廃、②加盟国間のヒト(労働者)、サービスおよび資本の自由移動に対する障害の除去を行うこと――を定めていた。いわゆる「関税同盟(a customs union)」を中心とする「共同市場(a common market)」の構築を目指すもので、関税同盟は予定より1年半早く1968年7月に完成し、域内関税の撤廃と共通対外関税の導入が実現した。しかし、「非関税障壁」は残ったままで、大市場のスケールメリットが生まれず、特に1970年代における2度の石油危機によって、加盟国政府はますます内向きになり、欧州レベルでの協力推進に消極的であった。
1980年代前半には「欧州動脈硬化症」とさえ言われ、将来に対する「ユーロペシミズム(欧州悲観論)」が流布。そのような危機を打破し、欧州統合を再建しようとしたのが「単一欧州議定書」であった 。
同議定書は、条約改正は加盟国政府の代表による政府間会議(IGC)によって行われる、と定めたEEC条約第236条に基づく、初めての基本条約の改正であった。同議定書策定の経験が、その後の欧州連合(EU)条約(別名マーストリヒト条約)や、アムステルダム条約、ニース条約、また発効が断念された欧州憲法条約(諮問会議を経てIGCを招集)を救済した現行のリスボン条約に至るまで、一連の条約改正作業の基本形をつくり、EC/EUの「深化」を大いに促進させることになった。
単一欧州議定書は、以下の政策を条約上明確にしてECの政策とした。
単一欧州議定書の最大の狙いは「域内市場」の完成。域内市場を「モノ、ヒト、サービス、資本の自由な移動が保障された国境のない領域」と定義付けし、遅くとも1992年12月31日までに漸進的に完成するという最終的な期限が設定された。当時、加盟国政府は、産業政策や公共調達などを通じて自国産業を保護し、いわゆる「ナショナルチャンピオンズ」の企業を育成してきたが、特に先端技術産業において国際競争力を失っていた。しかも、経済のグローバル化が急速に進行する中で、国内市場が狭すぎるものになった。そこで、障壁を除去し、単一の大市場で競争することで生き残った欧州企業が、米国や日本の企業と共に世界市場で競争できると考えられた。
単一欧州議定書の前文には、「経済通貨同盟(EMU)」実現の目標を掲げた1972年10月パリ首脳会議の最終コミュニケ、1979年3月に始動した「欧州通貨制度(EMS)」の創設に寄与した1978年7月ブレーメンと12月ブリュッセルの欧州理事会の結論など、これまでの通貨協力の経緯が明記された。さらに、EEC条約にEMUと題する1章が追加され、EMSおよび新たに導入された「欧州通貨単位(ECU)」が条約に初めて明記された。
社会政策はEEC条約に規定があったが、労働環境の改善およびEC委員会による欧州レベルの労使対話の促進が追加された。
EC域内の地域間の経済的および社会的格差を是正する目標が定められ、欧州地域開発基金(ERDF)が初めて条約に明記された。
欧州産業の科学的・技術的基盤を強化し、国際的競争力を高めるために、ECが欧州レベルでの研究・技術開発を推奨できる法的基盤が整備された。当時推進されていた「欧州先端情報技術研究開発戦略計画(ESPRIT)」、「欧州先端電気通信技術開発計画(RACE)」などの研究開発(R&D)を促進することを目指した。
環境汚染は、国境に関係なく進行するため、国境を越えた対策が求められ、1973年以来施行されてきたECとしての環境政策が条約に初めて明記された。
1970年以来、基本条約の枠外で、加盟国間で推進されてきた外交政策領域での協力の慣行を初めて条文化した。後の「共通外交・安全保障政策(CFSP)」や「共通安全保障・防衛政策(CSDP)」の基礎となった。
最も重要な制度面での改正は、EEC条約第100条に100条Aが追加され、域内市場関連の立法について特定多数決を導入したことである。ジャック・ドロール委員長(前仏財務相)の下、域内市場担当委員のコーフィールド卿(前英商務相)は、域内市場を完成させるために取り除くべき障害を、物理的、技術的、財政的の3種類に分け、さらにそれらを2つの段階(1985~86年、87~92年)に分けた約300の具体的な立法計画を提示した『域内市場白書』を作成した。
同白書は1985年6月のミラノ欧州理事会で採択されたが、域内市場関連の法案は、第100条に依拠することが多く、全会一致の決定が必要であった。当時までの速度では、技術的障壁を取り除くだけでも30年以上かかると試算されていた。単一欧州議定書によって、約300件の法案のうち、約3分の2が、全会一致ではなく、特定多数決によって決定されることになり、決定の迅速化が期待された。ただし、財政(税制)、ヒトの自由移動、労働者の権利と利益については例外とされ、全会一致が存続することになった。
それまで決定遅滞の最大の原因とみなされてきた「ルクセンブルクの妥協 *1」については、議定書策定の議論では言及されなかった。それは、「妥協」が法律ではなく、紳士協定から生まれた慣行であったからである。しかし、全会一致を必要としていた条文が特定多数決に改正され、政策領域もその後大幅に広げられたことが、「ルクセンブルクの妥協」の援用を非常に難しくした。
1984年2月に欧州連合条約草案(法的拘束力なし)を採択し、機構改革に積極的であった欧州議会は、IGCに代表を送れなかったが、単一欧州議定書は、諮問的な役割しか演じてこなかった欧州議会の権限を強化した。同意権限(新加盟国の承認、連合協定の締結)が初めて付与され、EC理事会と欧州議会との「協力手続き」が導入され、欧州議会の声をECの立法にさらに反映させるシステムが誕生した。その後の一連の条約改正の最大の勝利者は欧州議会であると言われるほど、多くの政策分野でEU理事会との「共同立法」権限を獲得し、名前にふさわしい重要な機関になっていく契機となった。
EC委員会の執行に関する評議会が3種(諮問、運営、規制)に制度化され、執行面でのEC委員会の裁量権は実質的に強化された。また、欧州司法裁判所も、IGCには参加しなかったが、単一欧州議定書によって「第一審裁判所(Court of First Instance)」の設置が認められ、第一審かつ最終審であった欧州司法裁判所の負担を軽減し、判決までの時間短縮が目指された。今日の「一般裁判所(General Court)」の前身となった。
さらに、加盟国首脳からなる欧州理事会に、法的な基礎が付与された。1974年12月のパリEC首脳会議で、欧州理事会として常設化が決定され、1975年3月ダブリンで第1回が開催された。以来、慣行で運営されてきたが、単一欧州議定書はその出席者と定例開催(少なくとも年2回)を定めた。EC加盟国の外交政策の調整と協力を目的とするEPC事務局が初めて設置され、理事会ビルの中に常設された。
単一欧州議定書は、EEC条約が定める「共同市場」を「域内市場」に衣替えし、今日の「単一市場」の構築の基礎となった*2。その根底には、新自由主義的な経済の考え方があり、その指導原理は競争であった。「非欧州のコスト」の削減が強く主張され、「国境なき欧州」による競争と3億2,000万人(当時の加盟国は12カ国)のスケールメリットが機能する大市場の形成があらためて追求された。1988年に提出された『チュッキーニ報告』では、域内総生産(GDP)を4.25%から6.5%に増加させ、200万人の雇用創出が予測された。最終的にEC委員会は、282件の法案を成立させることによって域内市場の完成を目指した。理事会は、期限の1992年12月末までに260件を採択し、採択率は92%と予想以上のものであった。
単一欧州議定書と域内市場白書は、「1992年ブーム」を引き起こし、80年代前半までの沈滞ムードを払拭し、欧州の人々の自信を回復させ、統合を再活性化させるのに大きく成功した。単一欧州議定書によるECの改革は、条文をみる限り、決して劇的なものではなく、控え目で、穏当な改革であった。しかし、単一欧州議定書と域内市場白書が提示したもの以上に、はるかに大きな影響を与え、欧州統合の一里塚となったのである。
その効果は、市場統合に乗り遅れることを懸念する周辺の欧州諸国が加盟を求めてECに急接近する「マグネット効果」をもたらした。当時の12カ国から、冷戦の終焉もあり、今日の28カ国に拡大。また、競争という強者の論理から弱者を保護するために、たとえば「社会的次元(social dimension)」の構築が提案されたり、加盟国間や地域間格差を是正して所得の再分配を目指す「経済的・社会的結束」が政策として認知されたりしたのも単一欧州議定書からであった。
ここまで、単一欧州議定書の目的、意義、歴史的経緯などを見てきた。単一市場の誕生と発展に向けた歩みは、さまざまな分野の政策と互いに関連しながら、「欧州を一つのまとまった地域とする」ための取り組みを方向付けてきた。しかし、今日の時点から振り返ると問題がなかったわけではない。
域内市場の経済的効果は予想を下回り、GDPの増加は約2%とも言われている。それでも、ECからEUに発展し、政策領域は大幅に広がり、加盟国も12から28に拡大し、西欧から欧州のほぼ全域を含むまでになったが、加盟国間、さらに国内地域間の経済的・社会的格差は拡大した。
単一市場構築の目標期限は1992年12月31日に設定されたが、域内市場は、1992年末の時点で終わったわけではない。関連法の多くは指令であり、国内法化する必要があり、時間がかかったものもある。さらに、その後の急激な技術革新や産業形態の変化、特にサービス分野の拡大と監督、「ユーロ」の導入、銀行同盟、デジタル市場の開放など、域内市場(単一市場)は、依然として継続中のEUの中核プログラムである 。
英国が国民投票で、EUからの離脱を選択したひとつの要因は、競争重視の結果、利益を得た少数の市民と利益の恩恵を得られなかった多くの市民との格差はさらに広がったことであった。しかもそれを促進したのがEUであると不当に批判され、結果としてEUがスケープゴート(生贄の子羊)にされ、EUからの離脱につながったのである。
執筆:田中 俊郎(慶應義塾大学名誉教授/ジャン・モネ・チェア・アド・ペルソナム)
1985年6月28日、29日にミラノで開催された欧州理事会は、基本3条約の改正を目的とする政府間会議(IGC)の招集を決定した。当時の議長国だったイタリアのべッティーノ・クラクシ首相が、IGCの招集は手続き問題であり、単純多数決で決めることができると、英国のマーガレット・サッチャー、デンマークのポール・シュルター、ギリシャのゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ各首相の反対を押し切って、7対3で決定。1975年3月にダブリンで欧州理事会の初会合が開催されて以来、32回目にして初めて投票による決定となった。
IGCの招集は、欧州議会と欧州共同体(EC)委員会の賛同を得た上で、次の議長国ルクセンブルクが7月22日に招集した外相理事会で正式に決定され、9月9日にルクセンブルクで第1回IGC会議が開催された。投票に破れたサッチャー首相がIGCをボイコットするのではないかとの観測も流れたが、英国は、デンマーク、ギリシャ、さらに1986年1月加盟予定のスペインとポルトガルとともにIGCに参加した。
EEC条約第236条は、IGCの構成を加盟国政府代表と定め、EC委員会には椅子を用意していなかった。しかし、同条は、加盟国政府とともに、EC委員会も、条約の改正を提案することができると規定されており、議長国ルクセンブルクは、EC委員会にIGCへの参加を認めただけでなく、条約改正草案を提案することを求めた。EC委員会のIGC参加については、どの加盟国も反対しなかったが、欧州議会の参加は認められず、IGC開催の前に欧州議会の代表の意見を聴く機会が用意された。議長国ルクセンブルクは、IGCの作業形態を定め、EC委員会も、審議の進行ペースを設定することに成功した。
しかし、その後英国が、ECの権限領域と欧州政治協力(EPC、外交政策の協力調整)の領域を分けて審議することを求め、結局、3条約改正を担当するドンドリンガー委員会(構成:EC常駐代表大使)と政治協力を担当するEPC政治委員会(構成:外務省政務局長)によって進められることになった。両作業部会は毎週のように開かれ、議論を深め、その報告は外相理事会に提出され、議長国が、EC委員会や理事会事務局の手を借り、改正案を作成していった。
閣僚級では「コンクラーベ」(法王選出会議のように缶詰で集中審議)を含めて6回開催され、12月2日、3日に開かれたルクセンブルク欧州理事会は、約27時間かけて4日未明に合意に達した。曖昧であった部分は、12月16日、17日の外相理事会で最終的な詰めが行われ、法律専門家の手を借り「単一欧州議定書」として条文化された。1986年2月17日に9カ国がルクセンブルクで、デンマークの国民投票(2月27日)の結果を待って2月28日に残りの3カ国(デンマーク、イタリア、ギリシャ)がハーグで、それぞれ調印した。
単一欧州議定書は、その後順調に加盟国の批准を受けたが、アイルランド最高裁判所が違憲判決を下したため、アイルランドでは憲法改正と国民投票(1987年5月26日)が行われ、予定より半年遅れて87年7月1日に発効した。
※本稿は執筆者による解説であり、必ずしもEUや加盟国の見解を代表するものではありません。
関連記事: 調印60周年を迎えるローマ条約――回顧と未来(EU MAG 2017年3月 特集)
*1 1966年1月以来、死活的な国益にかかわる問題については、加盟国に事実上の拒否権を付与
*2 「共同市場」と「域内市場」の内容は同じ。条約上は現行のリスボン条約でも域内市場が使用されているが、「欧州要塞」の構築など内向きのイメージが強い上に、政策領域が広がったこともあり、今日では「単一市場」が一般的に使われている。
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