2019.4.16
FEATURE
現在、EU28加盟国のうち19カ国、約3億4,000万人が使用し、世界第2位の流通量を誇る欧州単一通貨「ユーロ」。1999年1月1日に誕生し、当初11カ国で導入されたユーロの20年の軌跡について、エルカノ王立研究所(スペイン)シニアアナリストのミゲル・オテロ・イグレシアス氏が解説する。
ユーロを理解するには、2つの比喩を使うとよいだろう。1つ目は「船」だ。ユーロの創設は、本質的には米国発のドルショックに耐えるために欧州が取った防御策であった。1970年代初頭にブレトン・ウッズ体制が崩壊し、1970年代から80年代にかけて非常に不安定な変動ドル本位制の出現後、欧州はまず為替変動幅(「トンネルの中の蛇」と欧州通貨制度〈EMS〉)を導入。その後、単一通貨を生み出すことで対応しようとした。
すなわち、ドル中心の、ますます投機的な国際金融市場が引き起こしていた大きな波に対処できるような、十分に大きくて頑丈な船を建造しようとしたのだ。このユーロの前史において、その後を決定付けたのは、1971年のニクソン・ショックと1985年の米レーガン政権下のプラザ合意であった。それにより日本とドイツは、「米国は弱者いじめをする強国になり得る」と悟った。この点は、現在のドナルド・トランプ大統領に通じるものがある。
2つ目の比喩は「子ども」だ。ユーロの構想は昔からあったが、それは20年前の1999年に、ドイツとフランスの結婚によって生まれたと言える。この妊娠期間は、ベルリンの壁の崩壊、およびヘルムート・コール独首相とフランソワ・ミッテラン仏大統領の歴史的な合意と重なった。ドイツは、マーガレット・サッチャー英首相の激しい抵抗に反して、東西ドイツ再統一への支持をフランスから得た。その見返りに、第二次世界大戦後の経済的奇跡の象徴であるドイツ・マルクを諦め、経済と通貨に関する権限を、欧州の通貨同盟に統合させることとした。
同じ比喩に従って言えば、フランスとドイツは両国とも、前の結婚でできた「子ども(通貨)」を連れて、今度の結婚に臨んだことを忘れてはならない。ドイツの場合、オランダ、フィンランド、オーストリアという子ども、そして後に中・東欧からのいとこがやって来た。一方フランスは、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、そして後にマルタとキプロスという小さいいとこを連れて来た。これにより同じ屋根の下で、非常に多様な経済と文化の集まりができた。
このため、ほとんどの米国人経済学者が、ユーロは決して生き延びられないと考えた。彼らにとっては、非対称的ショック(asymmetric shocks)にさらされたときに、より強い地域からより弱い地域へと資金を移転するために必要な連邦予算を有する財政同盟無しに、通貨同盟をつくることは自殺行為だったからだ。
彼らの懸念は立証されている。誕生したばかりのユーロは虚弱だった。1年目には、強力なドルに対するユーロの価値が大幅に下がり、欧州中央銀行(ECB)はそれを支えるために、外国為替市場に介入しなければならなかった。当時、1ユーロの対ドルレートは86セント。この実験の存続に対する疑いは大きく深まった。しかし、危なげな立ち上がりにもかかわらず、ユーロは非常に快適な幼年時代を過ごし、強く育っていった。インフレ目標を掲げたタカ派で、かつ強硬な独立路線を貫くECBが指揮を執る一方で、米国の双子の赤字が膨らんでいく中、2000年代半ばまでには、見通しが外れた経済学者たちの間で、「若いユーロ」が「古いドル」を国際機軸通貨の王座から追い落とす日が来るのかどうかについて激しい議論が交わされた。前述の船の比喩に戻ると、ユーロ船は全速力で前進していた。
しかし残念なことに、ユーロ船は自身の成功の犠牲者となった。ユーロは大波に耐え得る大きな船であったが、波はどんどん大きくなっていった。欧州単一通貨の対米ドル為替レートは、2000年の最安値の86セントから、2008年には1ドル60セントまで上昇。この大幅な為替レートの上昇と比較的緩い金融政策は、資産バブル(本質的に大きな波)を生み出したが、再び米国が震源となった国際金融危機(過去80年間で最大のドルショック〈編集部注:リーマン・ショック〉)によりバブルがはじけた時、ユーロの構造的欠陥が見事に露呈した。
一部の国、特にギリシャがマーストリヒト条約で設定された全ての収れん基準――中でも公的債務に関する基準――を満たすことなく、ユーロ圏に参加したことが明らかになった。また、適切な危機管理と効果的な意思決定メカニズムがなければ、通貨同盟においてシステミックリスクを管理することは非常に困難なのも明白であった。結局、危機に陥った加盟国を救済しない、というマーストリヒト条約にうたわれた精神を再考し、経済的に弱い国々を救済し、ECBは支払い能力のある銀行と国家の両者に対する「最後の貸し手」にならざるを得なかった。
欧州首脳、特にアンゲラ・メルケル独首相の対応が長らく遅れた後、ユーロを救ったのはマリオ・ドラギ新ECB総裁だったと考える人は多い。ドラギ総裁は、2012年7月にスペインがギリシャ、アイルランド、ポルトガルに続いて救済策を求めようとしていた時、 「ECBはその権限の範囲内で、ユーロを守るために必要なあらゆる措置を取る用意がある。私を信じてほしい。それは十分なものになる」と言い切った。しかし、ユーロ船に入ったひび割れの修理に一役買ったのは、ドラギだけではなかった。彼の前任であるジャン=クロード・トリシェが、ドイツ出身のユルゲン・シュタルクECB専務理事やアクセル・ウェーバー・ドイツ連銀総裁に代表される、ドイツの正統派と戦っていた。
欧州の首脳たちは、恒久的な救済基金となる5,000億ユーロの貸出能力を持つ「欧州安定メカニズム(ESM)」を構築することで初めて合意した。また「ヨーロピアン・セメスター(欧州半期)」の導入により、ユーロ圏の財政的・マクロ経済的監視を強化した。さらに彼らは、欧州の主要銀行に対する単一の監督当局を擁した「銀行同盟」の創設についてさえ合意した。間違いなく、これは単一通貨の創設以来、最大の主権の移譲である。
なので、ユーロの小児期から成人期への旅は、容易ではなかった。どのティーンエイジャーもそうであるように、ユーロもまた実存的危機を幾つか経験した。数回ほど、国際通貨基金(IMF)の医者の世話にさえならなければならなかった。これらの危機については、2012年(13歳の時)と2015年(16歳の時)のグレグジット(Grexit=ギリシャ危機)劇を思い出すだけで十分だろうが、こういった経験は患者の命を奪うことはなく、むしろこの傷跡によってユーロはより強くなったと言う人もいる。
実際のところ、あらゆる苦難にもかかわらず、ユーロはまだわれわれと共にある。この通貨は、次の危機をも乗り越えて生き残れるだろうか? 答えは難しい。それは見方次第だろう。「ユーロには、将来の非対称的ショックを克服するためのマクロ経済の安定化装置を備えた財政同盟を必要としない」と考える人ならば、「ユーロ船は次のショックに耐えるべく十分に改修された」と思いたがるだろう。が、「財政同盟が絶対に必要だ。なぜなら経済的に弱い国々は、過去の危機の時と同じような構造調整の苦痛に耐えられないから」と考える人には、船は脆く見えるだろう。
皮肉(または不幸の元)なのは、船の構造をさらに改善させるために、われわれはおそらく次のショックが必要であるということだ。欧州連合(EU)の創設者の一人であるジャン・モネは、「欧州は危機を通して構築され、危機克服のために取られる解決策の総和になるだろう」と述べている。これは過去と同じように、今日でも当てはまるようだ。ブレグジット危機は最新の例と言える。繰り返すが、あらゆる苦難にもかかわらず、EUは一般的に考えられているよりも回復力がある(そして団結している)ことを示している。
筆者=ミゲル・オテロ・イグレシアス Dr. Miguel Otero-Iglesias
エルカノ王立研究所(スペイン)シニアアナリスト、IE School of Global and Public Affairs(スペイン)教授、ESSCA経営大学院(フランス)EU・アジア研究所リサーチフェロー
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