2019.11.22
FEATURE
1961年に建設され、ドイツ・ベルリン市内の東西の通行を物理的に不可能にし、冷戦によるドイツおよびヨーロッパの分断の象徴として、長らく立ちはだかった「ベルリンの壁」。ベルリンの壁崩壊から30年がたった今、ドイツ再統一が欧州統合に与えた影響について振り返ってみたい。執筆は、川嶋周一明治大学政治経済学部教授。
1989年の11月9日に、ベルリンの壁崩壊がなぜ起きたのかを理解するには、中長期的要因、短期的要因、そして直接要因(トリガー)の3つに分けて考えるのが有用だろう。中長期的要因としては、1980年代以降の東側陣営の政治経済的停滞が挙げられる。そのような停滞ゆえ、1985年にソ連に若き改革派の指導者ミハイル・ゴルバチョフが登場したことは、東側陣営に変革の期待を与えた。実際に1989年には、ポーランドでは総選挙で自主労組連帯が勝利し、ハンガリーでは改革派政権により集会・結社の自由が認められた。
短期的要因としては、この変革の波に対し東独政権は硬直的にしか対応せず、そのため国民からの反発が生まれ、1989年の特に夏以降、事態が流動化していたことが挙げられる。東欧の変革が進む中で、東独のエーリッヒ・ホーネッカー政権は改革を拒絶していた。これに対して国内での反体制運動が1989年に急激に盛り上がり、ライプチヒでは月曜日デモが組織され、同年10月には7万を超える参加者を集めて他の都市に波及した。ベルリンのアレクサンダー広場では、11月4日に50万以上の市民が街頭デモを行った。国境の鉄条網を撤去したハンガリーからは、2万を超える東独市民が西側に脱出していた。歴史の地殻変動が始まっていた。
東独は、この状況に至ってホーネッカーを更迭し、事態の収拾を画策した。しかし、11月9日、東独市民の国外旅行自由化規定の修正に関し、政治局局員のギュンター・シャボフツキーが、当該規定の発効を「即時に、遅滞なく」と発表してしまったため、ベルリン市民が壁に殺到し、東西間の通行の自由がなし崩し的に実現した。これがベルリンの壁崩壊の顛末である。端的に言って、ベルリンの壁崩壊は時間の問題だったかもしれないが、それでも意図しないトリガーによって予期しないタイミングで引き起こされたことだった。
ベルリンの壁が崩壊したことで東独は国家として持たなくなり、ドイツ再統一は現実的な目標となった。重要なのは、このドイツの再統一プロセスは欧州統合の劇的な深化と相互連関しながら進んだことである。そもそもベルリンの壁が崩壊したからといって、多くの関係者はドイツ再統一がすぐに実現する訳ではなく、数年かけて行う中長期的なプロセスとなることを想定していた。しかし、11月28日にヘルムート・コール西独首相が「十項目計画」を突如発表したことで、ドイツ再統一は即急な実現を目指すアジェンダとして急浮上することとなる。
これに対して欧州共同体(EC=当時、EUの前身)加盟国の首脳陣の多くは、ドイツ再統一に懐疑的ないしは否定的態度を取った。なぜなら、再統一によってドイツの力は今より強化されるだろうが、その再統一のプロセス次第では欧州の国際秩序そのものを揺るがしかねなかったからである。1989年末に開催されたストラスブール欧州理事会(EC加盟国首脳会議)におけるドイツ再統一への言及は、ドイツ人民により自決すべきという原則論にとどまった。
しかし、ドイツ再統一のプロセスは緩むことがなかった。またそれまで対立していたコール首相とフランソワ・ミッテラン仏大統領との間で、1990年4月に欧州統合の「政治連合」構築――すなわち欧州統合を深化させ、そこに再統一されたドイツを埋め込む――という国際秩序の再編が合意された。この政治連合コンセプトは、後に「マーストリヒト条約(1993年11月1日に発効した欧州連合〈EU〉条約)」へ引き継がれる。こうして、ドイツ再統一と欧州統合は明確に連関することとなった。6月のダブリン特別欧州理事会では、ECによるドイツ再統一への実現支持が声明として発表され(8月にはEC委員会より旧東独のECへの吸収も発表される)、ドイツ再統一を巡る一連の国際交渉が成功裏に終わると、10月3日にドイツは名実共に再統一を実現するのである。
このようなドイツ再統一の急展開とは裏腹に、旧東欧諸国のEU(編集部註:以下、当時ECであっても、便宜上、EUと表記する場合あり)加盟はスムーズにはいかなかった。確かに前出のストラスブール欧州理事会(1989年12月開催)では、ベルリンの壁崩壊が欧州の分断を克服する望ましい歴史的出来事であると祝福して、欧州復興開発銀行(EBRD)を設立し、中・東欧諸国への支援に向けた緊密な関係を構築することを声明で発表している。実際に早速、「ポーランド・ハンガリー経済再建援助計画(PHARE)」がこの時に実施された。これは、両国へ資本主義経済を導入することを視野に入れた経済改革の実行のために、500万エキュ※1 に上る財政支援を行うものだった。また、1990年から1996年にかけて、EUは旧東欧諸国と「欧州協定」と呼ばれる連合協定を結んだ。
しかしこれらの支援や協定は、加盟国側の思惑として、旧東欧諸国のEU加盟に直接つながるものとして締結された訳ではなかった。そのため欧州委員会は加盟国政府に働き掛け、旧東欧諸国の加盟に向けて具体的な道筋を打ち立てようとした。旧東欧諸国の数は多く、さらに旧ソ連から分離独立したバルト三国、そしてキプロスやマルタは、旧ソ連圏とは独立して同時期に加盟を目指していたこともあり、これらの加盟申請を秩序立って進めることはEUにとって難題だった。
1993年6月に開催されたコペンハーゲン欧州理事会において、将来的な旧東欧諸国の加盟について合意し、その加盟について条件をクリアすること(コンディショナリティ)を求めることとなった。いわゆる「コペンハーゲン基準」である。これは加盟申請国に、政治、経済、法的能力の3つの基準を求めたものだが、EU側にも新規加盟国の参加の影響を吸収できる十分な能力を求めるものだった。言い換えれば、加盟国拡大の前には、EU側の深化が必要だということである。これは、東方拡大を安易に進めれば、それまでの統合の成果を損ないかねないリスクとしてEU側が認識していたことを意味していた。
他方で、旧東欧諸国を含むことは、EUのソフトパワーを拡大することや、冷戦後に流動化した欧州周辺領域にも働き掛けることができるなど、数多くの魅力があるものだった。これは、1997年に発表された「アジェンダ2000※2」に、EU加盟申請国を最小限に留めたいジャック・サンテール欧州委員会委員長の意向に反して、チェコ、ポーランド、ハンガリー、エストニア、スロヴェニア、キプロスという6カ国との加盟交渉開始が盛り込まれたことからも読み取れた。エストニアとスロヴェニアという、それぞれ旧ソ連と旧ユーゴスラビアからの独立国を加盟候補国に含み、これらの地域へEUが拡大することで、地域秩序を安定化させることを狙ったのである。
それに、東方拡大に消極的だったEU加盟各国も、1998年にコソボ紛争が勃発したことにより、にわかに態度を改め、それまで拡大の対象に上がっていなかったボスニア=ヘルツェゴビナやクロアチアなどの東欧・南欧諸国に対しても、将来的な加盟の道を用意し始めた。1999年から急ピッチに進められたEUの東方拡大交渉は、数多くの障害にもかかわらず、2003年12月のコペンハーゲン欧州理事会において、10カ国の東・南欧諸国の加盟について合意した。こうして東方拡大と呼ばれた、旧東欧諸国とマルタ、キプロスを含む10カ国は、2004年5月にEUに加盟した。ルーマニアとブルガリアは、その3年遅れの2007年に、クロアチアは2013年にEUに加盟した。
ベルリンの壁は世界の分断の象徴だったからこそ、その崩壊は冷戦の終焉を意味した。では、冷戦が終わったことで何が変わったのか。その影響は次の二点にまとめられるが、結論から言えば、その影響は甚大で、欧州統合を根本から変えたと言ってもいいかもしれない。
第一に、そもそもEUが成立したきっかけとして、ベルリンの壁崩壊を抜きにして考えることが難しい。ベルリンの壁の崩壊によって東西ドイツの再統一プロセスが始まるが、重要なのは、その過程と並行して、従来のECを全面的に改築し、全くレベルの異なる高次な政治統合を実現するEUの設立が合意されたことである。欧州統合は、第二次世界大戦の戦後体制という面もあった。それまで敵対していた独仏は冷戦の枠組みの中でソ連という共通の敵に対して結束し、独仏を核としてつくられた欧州統合は、冷戦における対ソ安全保障を担う北大西洋条約機構(NATO)と実質的な役割分担を行っていた(EU=NATO体制)。有り体に言って、欧州統合は冷戦の産物だったので、冷戦が終われば冷戦期につくられた欧州統合の姿は変わらなければならなかった。旧共産圏の東欧諸国の加盟は、そのような冷戦終焉後の欧州統合の変化した姿を示すものだった。
第二に、共産主義体制が崩れた旧東欧諸国にとって、ベルリンの壁崩壊に伴う冷戦構造の崩壊は、必然的に欧州への復帰へと向かわせたが、それは具体的にはEUへの加盟を意味していた。欧州を体現するものはEUであり、それ以外の存在は考えられなかった。EUもまた、中長期的に旧東欧諸国の加盟を排除することは困難だった。
以上の二点をまとめると、冷戦期に始まった欧州統合は、長らくそのメンバーシップを西側ないしは中立国家に限定していたが、東方拡大をもって文字通り全欧州的組織となったこと、そして第一のポイントに挙げた、壁崩壊に伴う東西ドイツの再統一という地殻変動が、そもそもマーストリヒト条約を生み出す契機となったことを考えると、ベルリンの壁の崩壊は、現在のEUの姿を用意した母体そのものだと言えるだろう。
ベルリンの壁が崩壊してからの30年間で、欧州統合の姿は劇的に変わった。EC時代とEU時代の統合の根本的な違いは、単なる地理的な範囲にあるのではなく、EC時代の経済統合も通貨統合も構想や準備段階にすぎなかったが、EUになって初めて通貨統合と経済統合が実現し、シェンゲン協定もあって内なる国境線もなくなり、文字通りの一つの欧州が姿を現したことである。
しかし同時に、統合が実現したことで、EUは市民の日常生活に大きな影響を与える存在となった。EUはユートピアではなく、すでに権力を備えた政治体である。実際、ユーロ危機や難民危機、そして英国のEU脱退(ブレグジット)問題を経て、反EU政党への支持が高まり、EUを権力体と見なしてEUの政策にごく一般的な人々からの批判が向けられるようなったのも、ここ数年のEUの日常風景でもある。欧州統合が有益だと自明のように思われていた時代は残念ながら過ぎ去ってしまった。現在は、欧州統合が人々にどのような利益を与えるのかを、ひたすら繰り返し説明しなければならなくなっている。これは、今後のEUが抱える大きな課題であり続けるだろう。
またEUは、人権、自由、民主主義、平等、法の支配という価値に基づく共同体であり、欧州内の平和を促進することを目標に持ち、確かに一つの欧州の実現を理想としている。しかし現実的には、旧東欧圏の諸国と西欧諸国間に抜きがたい差異が残り続けているばかりか、欧州各国の国内社会にも分断が生まれている。国内社会が分断されているのに、どうして欧州レベルでの統合が可能となるのだろうか。国内社会における分断の克服は、欧州統合の理念の発露と決して無関係ではない。今後、国内における社会統合の問題は、欧州統合の問題としても認識されることが必要になるだろう。
ベルリンの壁が崩壊した時、確かに世界はユーフォリアに包まれたが、30年という時間はむしろ東西欧州間で進まなかった統合の現実を映し出しているようである。とはいえ、長く求め続けていた制度としてのEUは実現した。であれば今は、EUの理念をどのように現実的な制度に落とし込み、どうより多くのEU市民の利益につなげていくのかという、終わりない模索の段階となるだろう。EUが突き付ける問題は根源的な問題であり、われわれはその問いに向き合い続けなければならない。
※1 エキュ(欧州通貨単位、European Currency Unit=ECU)とは、ユーロ導入まで使用されていたバスケット通貨。1999年1月1日に、1対1でユーロに置き換えられた。
※2 中・東欧諸国のEU加盟を視野に入れ、EUの改革や強化などを示した政策文書。1999年3月のベルリン特別欧州理事会で採択された。
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