2025.7.30

Q & A

脱炭素を成長の原動力に—EUの「クリーン産業ディール」

脱炭素を成長の原動力に—EUの「クリーン産業ディール」

欧州連合(EU)は2025年2月、気候変動対策と産業競争力の両立を図るべく、「クリーン産業ディール (Clean Industrial Deal)」と呼ばれる新たな戦略を発表した。2019年12月に公表された「欧州グリーンディール」の一環として、脱炭素を成長の原動力とする産業再編を通じ、持続可能な経済基盤の強化を目指す構想だ。日本もEUと共通する課題に直面しており、エネルギー、資源、投資、人材といった複数の分野にまたがる総合政策として、協力の可能性が大きく広がる。今回、一橋大学大学院法学研究科の中西優美子教授に「クリーン産業ディール」が策定された背景や狙い、具体的な内容、日・EUの連携の展望についてどう考えるか、話を聞いた。

Q1. EUの「クリーン産業ディール」はどのような経緯で策定されましたか?

これまで、経済成長と環境対策は相反するものとされ、欧州連合(EU)の気候政策においても、企業側が過重な負担を訴える場面が少なくありませんでした。ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長の第1期(2019〜2024年)には、「グリーン化」と「デジタル化」を両輪とし、「グリーン化」については、「欧州グリーンディール」とそれを確実に実現するための「Fit for 55」が打ち出され、排出量取引制度(EU ETS)の強化や炭素国境調整メカニズム(CBAM)の導入など、気候中立に向けた法制度が次々と整備されていきました。その一方で、規制強化の急速な進展により、欧州の産業界では「このままでは企業活動の持続が困難になる」との危機感が強まりました。

そうした中、2023年2月に欧州委員会は、温室効果ガス排出のネットゼロ化に取り組む欧州産業の競争力を強化し、気候中立への早急な移行を支援するため、「グリーンディール産業計画 (Green Deal Industrial Plan)」を公表。また、2024年2月に発表された「アントワープ宣言」では、欧州の主要産業団体が連名で、気候対策と並行して産業競争力や投資環境への配慮を求める声を明確にしました。環境重視のあまり、現場の経済活動に無理が生じているという切実な訴えが、文書という形で広く共有されたのです。

このような要請を受け、EUの政策方針にも変化が生じます。2024年の欧州議会選挙を経て再任されたフォン・デア・ライエン委員長の下、新たな任期では「環境と産業の調和」を軸とした政策の見直しが進みました。転換の土台となったのが、前欧州中央銀行総裁マリオ・ドラギ氏による報告書です。報告では、米中とのイノベーション格差の解消、気候対応と産業強化の両立、域外依存からの脱却と経済安全保障の確立といった三つの柱が示されました。

ドラギ前欧州中央銀行総裁(左)から報告書を受け取ったフォン・デア・ライエン欧州委員会委員長(2024年9月9日、ブリュッセル)©European Union, 2024

この提言をもとに、2025年1月には「競争力コンパス」が策定され、2月には「クリーン産業ディール」が発表されました。これは、環境政策と産業戦略を一体的に進める新たな成長モデルであり、企業が抱える課題に対応しながら、経済成長と気候目標の両立を図る方針に転換したものです。

「クリーン産業ディール」では、エネルギー、戦略的市場、資金、人材、資源、国際連携といった多様な分野が対象となり、持続可能で競争力のある産業基盤の構築を目指しています。具体的には、安価で安定したエネルギーの確保、公共調達も活用した市場形成、資金調達と投資促進の強化、循環経済と重要原材料へのアクセス向上、グローバル市場との連携とパートナーシップ構築、そしてスキル開発や労働移行支援などの政策が組み込まれています。

EUはこうした包括的なアプローチを通じて、気候中立を目指しつつ、産業の国際競争力と経済成長の維持を本格的に追求しようとしています。

Q2. EUが「クリーン産業ディール」を掲げる背景は?

「クリーン産業ディール」は、三つの主要な課題意識に基づいています。第一に、気候変動対策を最優先課題として位置付けていることです。EUは2021年に「欧州気候法」を採択し、2050年までにカーボンニュートラルを達成することを法的に義務づけました。この法律はEUの全機関と加盟国を拘束し、目標未達成はEU法違反と見なされる、非常に強力な制度です。さらに、2021年に、欧州委員会は、1990年比温室効果ガスを2030年までに55%削減するために、8つの既存の措置(例えばEU-ETS)の改正と5つの新規の措置(例えばCBAM)の提案からなる、「Fit for 55」と呼ばれる施策パッケージを出しています。

第二に、エネルギー安全保障の観点です。2022年のロシアによるウクライナ侵攻により、EUのエネルギー政策は大きな転換点を迎えました。ロシア産天然ガスへの依存を脱することが急務となり、再生可能エネルギーの導入やエネルギー効率の向上が加速されることになります。こうした転換を支えるため、「REPowerEU」計画が打ち出され、企業による設備投資や製造・物流の変革が求められるようになりました。また、製品ライフサイクル全体を見直す「循環経済(サーキュラーエコノミー)」への移行も重要視されています。自動車や家電製品には「デジタル製品パスポート(DPP)」の導入が進められ、素材の構成や修理可能性といった情報を見える化する仕組みが拡がりつつあります。

廃熱を回収しカーボンニュートラルなプロセス熱へと変換するQpinch社の施設(2025年2月25日、ベルギー・アントワープ)©European Union, 2025

第三に、産業競争力を取り巻く国際的な動向です。米国では「インフレ抑制法(IRA)」により、再生可能エネルギー分野などに巨額の補助金が投じられ、国内生産を優遇する政策が推進されています。その結果、欧州企業の一部では生産拠点を米国へ移す動きが加速しています。さらに、EU域内では厳格な環境基準や規制に対応する負担が重く、相対的に規制の緩い地域への移転を検討する企業も出てきました。このままでは欧州の産業が空洞化し、雇用や経済の基盤が脅かされかねません。

こうした状況に対応するため、EUは炭素国境調整メカニズムを導入し、域内企業と輸入品との間に公平な競争条件を整えようとしています。鉄鋼やアルミニウムなどに対し、排出量に応じたコストを課す仕組みが導入され、脱炭素の取り組みによるコスト負担を調整する制度です。

さらに、EUは多くの重要な原材料を中国などに依存しているという構造的課題にも直面しています。そのため、サプライチェーンの強靱化や資源の自立確保が、産業政策の喫緊の課題となっています。

Q3. 「クリーン産業ディール」はどのような法制度で構成されていますか?

EUの「クリーン産業ディール」は、気候変動対策と産業競争力の両立を目指す「成長戦略」として設計されており、単なる環境政策ではなく、産業政策そのものです。その核となるのが、制度面、資金面、人材面、そして供給網の4つの分野から産業を支える取り組みです。特に、外部依存からの脱却と、いかにして域内の戦略的自立を実現するかが問われており、そこに対するEUの答えとして生まれたのが、「ネットゼロ産業法(NZIA)」と「重要原材料法( CRMA)」、そしてそれらを支える投資制度や許認可の簡素化という包括的な改革です。

まず、ネットゼロ産業法は、再生可能エネルギーや蓄電池、二酸化炭素回収・貯留(CCS)など、脱炭素社会の実現に不可欠な技術を「ネットゼロ技術」と位置付け、それらをEU域内で安定的かつ大量に生産できる体制を構築するための法律です。従来、こうした技術の製造や設置には非常に複雑で時間のかかる許認可手続きが必要とされていましたが、企業側からの「これでは対応しきれない」との声を受け、法的にその手続きを簡素化・迅速化する仕組みが導入されました。さらに、この法律では「ネットゼロ加速バレー」と呼ばれる産業集積地を支援する制度も盛り込まれており、特定の地域に戦略的にネットゼロ関連産業を集中させる構想が進められています。ただし、アセスメント手続きの緩和と環境保護のバランスが課題として浮かび上がっており、その点にも慎重な検討が求められています。

次に、重要原材料法は、ネットゼロ技術を成り立たせるうえで不可欠なリチウムやレアアースといった重要原材料の安定確保を目的としています。現在、EUは多くの素材を中国など特定国に依存しており、供給途絶リスクが懸念されています。そこでこの法律では、供給リスクのモニタリング体制を強化し、原材料のリサイクルや代替素材の開発など、循環性の高い資源利用を法的枠組みとして後押しする枠組みが設けられました。つまり、ネットゼロ産業法が「どう作るか(技術)」の法制度であるとすれば、重要原材料法は「何で作るか(素材)」を支えるもう一つの柱です。

再利用可能な高純度金属へと再生するために回収された古い携帯電話やマザーボード、プリント基板などの電子スクラップ(2025年2月18日、ベルギー・アントワープ)©European Union, 2025

そして、この二つの柱を横断的に支えるのが、投資制度と規制の簡素化です。とりわけEUの投資能力を高めるために、「InvestEU」という官民連携の投資プログラムが強化され、加盟国ごとに柔軟に資金を動員できるような仕組みが整備されつつあります。これにより、約500億ユーロ規模の新規投資が見込まれています。さらに、企業が過度な規制負担によって動きづらくなることを防ぐため、2025年2月には「オムニバス・パッケージ」と呼ばれる包括的な簡素化提案もなされ、報告義務や認証基準の大幅な見直しが始まっています。

このように、EUのクリーン産業戦略は、ネットゼロ産業法によって技術面を、重要原材料法によって資源面を、そして投資・規制の合理化によって制度的基盤を整えながら、「環境目標」と「経済成長」の両立を本気で目指そうとしています。気候危機に対応するだけでなく、世界の産業競争の中で持続的に競争力を持つための、極めて戦略的な政策体系だと言えるでしょう。

Q4. クリーン産業ディールは日本とどのような関係がありますか?

EUと日本は、「価値を共有するパートナー」として、クリーン産業分野でも非常に連携しやすい関係にあります。EUの基本条約である、EU条約の第21条では、民主主義、法の支配、人権などの価値を共有する第三国としか関係を発展させないという原則が明記されており、日本はこの条件を満たす数少ない国の一つです。両者はすでに、経済連携協定(EPA)および戦略的パートナーシップ協定(SPA)という法的拘束力を持つ二つの協定を結んでおり、そこではエネルギーや安全保障、環境など、幅広い分野での協力が法的枠組みとして定められています。このように、日・EU関係は単なる外交的な合意や口約束ではなく、条文によって明確に基盤が築かれているのです。

また、EUと日本は、脱炭素社会の実現や資源供給の安定といった同じ課題を抱えており、特にネットゼロ産業法や重要原材料法の文脈においては、協力の必要性が一層高まっています。例えば、日本も2050年までにカーボンニュートラル実現を掲げる一方、資源に乏しいという構造的課題を抱えています。こうした状況はEUと非常に似ており、気候変動対策と産業競争力の両立を図るうえで、政策的な共通性が多いのです。そのためEUの取り組みは、日本にとっても非常に参考になりますし、技術協力や制度設計の段階から日・EUが共に関わっていく意義が大きいと言えるでしょう。

「日・EU水素ビジネスフォーラム」で発言する欧州委員会のシムソン委員(エネルギー担当、当時)(2024年6月3日、東京)©European Union, 2024

実際、日・EUはすでに「グリーン・アライアンス」を締結しており、そこでは研究開発レベルでの協力も進んでいます。日本製品に対する信頼性も高く、EU市場への参入障壁が比較的低いという利点もあります。したがって今後は、企業のニーズや実情に即した連携をどう深めるかが鍵となります。これまで、EUの政策が世界に影響を及ぼす「ブリュッセル効果」として、日本がEUの基準を受け入れる形が多かったのに対し、ネットゼロ技術など新しい分野では、基準や開発段階から共に作り上げていく「共同設計型」の協力がより重要になるでしょう。

気候変動は、まさに待ったなしのグローバル課題です。だからこそ、日本とEUは志を同じくするパートナーとして、それぞれの強みを活かし、戦略的な協力関係を築いていくことが期待されています。クリーン産業ディールが「産業政策」であると同時に「気候政策」であるというその二重の意義――すなわち、脱炭素を実現しつつ競争力も維持・強化するという考え方は、日本にとっても極めて示唆に富むものであり、今後の日・EU連携の中核となるでしょう。

中西優美子(なかにし・ゆみこ)

一橋大学大学院法学研究科教授。専門はEU法、EU環境法、EU対外関係法。EUの気候・エネルギー政策、域内市場制度、サステナビリティをめぐる法制度に精通し、EUと日本の法的連携の在り方についても研究を進めている。著書に『概説EU環境法』(法律文化社、2021年)があり、環境やEUと日本のEPA/SPAに関連する英語論文(Hitotsubashi Journal of Law and Politics等)も多く執筆している。経産省の不公正貿易政策・措置調査小委員会の委員、経団連の21世紀政策研究所の所員、日本エネルギー法研究所の所員を務め、実務との連携も積極的に行っている。

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