日本で名馬輩出に奮闘するアイルランド人牧場主

© Paca Paca Farm

「優駿のふるさと」と呼ばれる北海道日高地方。全国の競走馬の約8割を生産する伝統的な馬の産地の中心地に、獣医師でもあるアイルランド人が経営し、ダービー馬も輩出している牧場「パカパカファーム」がある。代表のハリー・スウィーニィ氏に日本での牧場経営の魅力などについて話を聞いてみた。

牧場開設から11年で得た日本競馬界における最高の栄誉

パカパカファームでは現在115頭あまりの馬を飼育。牧場の理念は「できるだけ自然な環境で育てること」とあって馬たちは冬でも昼夜を問わず屋外で過ごす

スウィーニィ氏が2001年に開設したパカパカファームは、北海道の南、日高エリアのほぼ中央に位置する新冠(にいかっぷ)町にある。33ヘクタールの土地と3頭の繁殖牝馬の飼育からスタートした牧場は、現在約200ヘクタールまで広がり、繁殖用の牝馬を中心に 、1歳馬、当歳馬(その年に生まれた馬)など計115頭あまりを飼育している。その中には預託馬(預かって飼育している馬)もいて、クライアントは日本人のほかに、英国、オーストラリア、アイルランド、中国などの外国人、さらには米国の大手ヘッジファンドの馬もいるという。

2007年には生産馬の「ピンクカメオ」がGIレースのNHKマイルカップで優勝、2012年には「ディープブリランテ」が日本ダービーを制覇するなどパカパカファームは一躍脚光を浴びた

今年で設立14年目という比較的歴史の浅い牧場であるパカパカファーム。「牧場が成功するためには人々に認識される明確なブランディングが必要」というスウィーニィ氏の経営戦略から、看板、厩舎をはじめ、ユニフォームや作業車に至るまで、メインカラーである「赤」と「黒」に統一されている。ポップでおしゃれな感じの外観からは想像し難いが、その実力は折り紙付きだ。開設から6年後の2007年にはパカパカファームで生まれた「ピンクカメオ」がGⅠレースのNHKマイルカップで優勝。さらに2012年には「ディープブリランテ」が日本ダービーを制覇するという快挙を成し遂げた。ダービー馬輩出という競馬界最高の栄誉を異例のスピードで手にしたパカパカファームだが、ここに至るスウィーニィ氏の道のりは決して平坦ではなかった。

競馬の本場アイルランドから未知の国「日本」へ

スウィーニィ氏は1961年にアイルランドで生まれた。アイルランドと英国の大学で獣医学の学位と博士号を取得。卒業後はアイルランド、英国、米国、オーストラリアなどの厩舎でサラブレッドの獣医師として働き実績を積んだ。その後、アイルランドのカラ(同国の競馬界の中心地)で働いていた1990年に大きな転機が訪れる。北海道十勝の大樹ファームから、「牧場で1年間働いてみないか」という誘いを受けたのだ。当時新婚で家を購入したばかりだったが、アイルランド人の妻とともに「大冒険の1年になること」を期待して来日を決める。北海道がどんな場所か全く知らなかったことも、さほど迷うことなく決断できた理由であった。

希望を胸に抱いて来日したスウィーニィ氏を待っていたのは、雪の多い十勝の「長く厳しい冬」だった

初来日したスウィーニィ氏を待ち受けていたのは、雪の多い十勝の「長く厳しい冬」と、夏場に大量発生するアブだった。今でこそ日本語が堪能だが、来日当初は日本語が全く話せなかった。「大樹での生活は大変でしたが、それでも楽しかったです」と語るスウィーニィ氏は、持ち前のバイタリティで困難を克服し、結局5年間大樹町の牧場の場長を勤める。

1995年には日高にあった牧場の総支配人として競走馬の育成に携わることとなり、手掛けた馬達は数々のレースで活躍、スウィーニィ氏も充実した時を送っていた。ところがこのころ、スウィーニィ夫妻は来日後に生まれた4人の息子達の教育問題に直面。近くにインターナショナルスクールが無かったため、妻と息子たちをアイルランドに帰国させ、単身生活をせざるを得ない状況になったという。

スウィーニィ氏はこの時、日高の育成牧場の総支配人を退き、フリーのトレーダーとして新たな競馬ビジネスにチャレンジすることを決意した。その決意には、日本とアイルランドを行き来して、可能な限り家族と一緒に過ごす時間を作りたいという思いもあった。1998年から3年間、繁殖用牝馬や子馬の輸出・販売ビジネスを独自に展開。海外の競馬ビジネスのネットワークを広げつつ、繁殖用の牝馬の選択眼に磨きをかけていった。その経験は後にパカパカファームの経営に活かされることになる。

不屈の精神はアイルランド人に流れる血

日本の競走馬ビジネスに携わっておよそ10年。スウィーニィ氏は、ついに自分の牧場を持つことを決意する。日本の競馬産業の可能性を確信していたことと、既に2つの牧場で経験を積んでいたことから「自分の牧場でサラブレッドを育ててみたい」という思いが強くなったのだ。しかし、現実は予想以上に厳しかった。

スウィーニィ氏(写真右)はアイルランド・サラブレッド生産者協会 (ITBA)から、海外の競馬業界で成功したアイルランド人向けの「Wild Geese賞」を授賞している(2013年1月26日)

牧場開設に向けて軽種馬農協の組合員申請を行うが、「外国人だから」という理由で却下されてしまう。そこに追い打ちをかけたのが資金調達の壁。「外国人や、外国人が所有する企業には融資を行っていない」と北海道の全ての銀行に言われたことだった。

しかし、スウィーニィ氏は不屈の精神を発揮し、ライセンスや資金調達の問題をクリア。2001年、パカパカファーム開設にこぎ着ける。その不屈の精神の源泉について「アイルランド人は世界のあちこちに移住してきた非常に高い適応能力を持っているのです。1度失敗し、2度目も失敗したら、次は方法を変えて再度挑戦する。私は戦うことを諦めたことなど一度もありません」とスウィーニィ氏。

知恵と経験を活かしたブランド戦略

牧場開設で力を注いだのは徹底したブランド戦略。一度聞いたら忘れない「パカパカ」という牧場名を付けることであり、実務面では「ブランド力のある馬を手に入れる」ことだった。競馬は「血のスポーツ」とも言われており、日本では特に血統が重視される。フリーのトレーダーだった時代の経験と人脈を活かして世界中のセリや牧場を回り、日本ですでにトップクラスの競走馬を生んでいる繁殖用牝馬の獲得に努めた。その結果、2007年には生産馬のピンクカメオがGⅠで勝利する。

パカパカファームでは、土壌や牧草を研究して開発した独自の飼料「パカパカミックス」を使っている

スウィーニィ氏にはシンプルな哲学がある。「繁殖用の牝馬自身が素晴らしい競走馬であったか」ということだ。その哲学にこだわった結果、2012年の東京優駿(日本ダービー)では、生産馬のディープブリランテが勝利を収める。もちろん、短期間で活躍馬を輩出した理由は血統だけではない。獣医学に基づく馬の管理、パカパカファームの土壌や牧草を研究して開発した独自飼料「パカパカミックス」など、さまざまな科学的アプローチによって、比較的小規模な牧場ながら優秀な馬を生産し続けているのだ。

日本の馬産業に関わりたい外国人にとっての「玄関口」に

定期的に行われる研修生たちの勉強会。馬に関する仕事の実習だけではなく、ディスカッションや講義を通して軽種馬ビジネスを学ぶ(中央奥がスウィーニィ氏)

現在パカパカファームには約12名の常勤スタッフがいる。日本人に加え、フィリピン人、メキシコ人、英国人、米国人、アイルランド人と、その国籍は多彩だ。また、日本国内や海外で獣医学や馬科学を学ぶ研修生も受け入れている。学生たちは、廃校となった小学校を買い取ってリフォームした寮に滞在し、牧場の手伝いの他に講義も受けるという。スウィーニィ氏は「パカパカファームのブランドを海外でも展開し、日本の馬産業に関わりたい外国人にとっての『日本への玄関口』になりたいと願っています」と話す。

1歳馬の骨の成長度合いを確認するため、秋と春の2回レントゲン検査を実施する

日本に来てから25年、日本と日本の馬産業を愛し、日本の競走馬ビジネスに関わり続けていきたいと語るスウィーニィ氏。今後の目標について「日本の競馬界のシステムはインフラも賞金額においても世界一。その中で一流の競走馬を生産し続け、トップクラスの競走馬を適正な価格で提供する、真にプロフェッショナルな牧場になりたいと思っています」とのこと。競馬の世界に新しい風を吹き込んだパカパカファーム。スウィーニィ氏の新たな挑戦はこれからも続く。

 

 

写真提供:パカパカファーム(Facebookより)

ハリー・スウィーニィ Harry Sweeney

1961年、アイルランド・ラウス州生まれ。1983年にアイルランド国立大学ダブリン校で獣医学の学位を取得後、英国のエジンバラ大学で獣医学の博士号を得る。1990年に妻と来日、1995年まで北海道十勝の大樹ファームで場長として勤務。1995年~1998年まで北海道日高の待兼ファームでジェネラルマネージャーを務める。その後、フリーランスで馬を輸出・販売するビジネスを手がける。2001年、日高の新冠町に競走馬の生産牧場「パカパカファーム」を開設。